喧嘩の後にはいつも後味の悪い空気と、あんなこと言うんじゃなかったなという  後悔だけが胸に残り、ソフィーの罵声と涙声が脳内にしっかりと刻み込まれて何  時間も同じ場所から離れられない癖をそろそろどうにかしたいものだとハウルは  思った。さっきから何度も何度も部屋の扉をノックしようとしているのにも関わ  らず体の中に相反するものが存在しているかのように脳からの伝達を体が受け付  けてくれず、ノックする為の拳が扉の目の前でその形のまま止まっているのを見  ているのにもいささか飽きてきたところだ。
別に、ノックをして返事が返ってこないのが怖いのではない。そんなの返ってこ  ないに決まっている。怒っているのだから。ただ、ノックをして扉を開けたとき  にまだソフィーが泣いていてまた罵声を浴びせられて喧嘩が再び勃発してしまう  のだけが怖かった。そうしたら恐らく自分はまたソフィーに思ってもいない酷い  事をいって傷つけてしまうのではないのかと思うのだ。自分でも恐ろしく子供だ  と思う。周りの物事に対しては周囲が感嘆の念を漏らすほど卓越して物事に対し  て適切な状況判断を下せるというのにソフィーが関わってしまうとどうも感情的  になってしまい理性が利かなくなってしまう。大切なのに、傷つけたくないのに。
もしかしたらこれは、愛ゆえのリスクなのかもしれないけれど。
いつまでたってもこんなところでじっとしているわけにもいかず、ハウルはごく  りと生唾を一つ飲み込んで、握っていた拳にもう一度強く力をこめると、しっか  りとソフィーの部屋の扉を見据えて控えめなノック音を鳴らした。
ドクンドクンと静かに、けれどもハウルの行動を急かすかのように早く早く心臓  は音を奏でていく。手のひらにじんわりと汗がかかり、いてもたってもいられな  くなったハウルは、もう一度だけ唾を呑み込んだ。
しかし、当のソフィーは部屋から一切返事はなく、まあここは想定内だったとい  う事でハウルは仲直りのための次の段階へと進むため強く強く握り締めていた拳  を解き、ソフィーの部屋の金色のドアノブにゆっくりと手を伸ばした。じんわり  と汗をかきほどよく熱を持った手のひらに、ひんやりとしたドアノブは妙に心地  よく感じた。そしてそのままスローモーションのように扉をゆっくりと押し開け  て伺うようにまずは視線だけを部屋の中に入りこませた。人一人分ほど開かれた ドアからはカーテンも締め切った真っ暗な部屋の中しか映し出されずどうにも確  認できる状態ではない今の状況にハウルは顔だけを部屋の中に進入させてキョロ  キョロと辺りを見渡した。机・・にはソフィーはいない。クローゼットの近くに  も扉の裏側にも床にも机の下にもハウルが探している意中の相手は見つからない。
しかし、部屋の隅のほうに追いやられているベッドには不自然なふくらみが出来  ていて、ハウルは名を呼んでみようかと一瞬口を開いたのだが何だかそれも怖く  なってきたのでぎゅっと唇をかみ締めると真っ暗な部屋の中へ体を滑り込ませた  後、音を立てないよう後ろ手でドアを閉めて迷う事無くソフィーのベッドの傍ら  に膝をついた。
ソフィーは、泣いているんだろうと思った。部屋に閉じこもる前に壊れたスピー  カーのようにわめき散らしたソフィーの言葉と泣き顔が頭の中に鮮明に蘇る。し  っかりと頭の部分まで布団で覆い隠してしまっているソフィーの顔は未だにどう  っているのか確認できず、ハウルは遠慮がちに布団に手を伸ばして、ソフィーの  表情が読み取れるくらいまでゆっくりと布団をずらしていく。
「・・・寝てるの?」
だんだんと見えてきたソフィーからは規則的な寝息がすーすーと聞こえている。  しかし、その表情は哀しそうな表情のままでトナカイのように真っ赤になってし  まった鼻と泣きはらしたような目をしたまま頑なに目を閉じているソフィーの顔  にハウルは胸が締め付けられる思いがした。決してソフィーだけが悪いわけでは  ないのに。自分はソフィーを責めたんだ。
ハウルは静かな寝息を立てるソフィーの頬に優しく触れて、まるで硝子細工を扱 うかのような手つきでソフィーの髪を撫でた。さらりとした感触はとてもとても  懐かしく思えて、そして同時に愛しく感じた。
まだ涙の後が残る可愛らしい頬にキスを落とし、薄っすらと開いた口にもそっと  キスを落とした。それはいつも喧嘩の後だけに味わうことの出来る涙の味がする  キスだった。
もしソフィーが起きてきてもまだ怒っているようだったら、そのときは思い切り  抱きしめてキスをして。嫌がられても抱きしめて力いっぱい謝ろう。

そしたらきっと、ソフィーは笑ってくれるような気がするから。