彼女のことが、好きだと思った。


広い広い世界に存在する全ての色という色を奪ってしまうかのような 真っ白な雪は、あっという間にがやがや街を白一色に染めて、あまり 発展しているとは言いがたいけれども、それでも穏やかな街だったこ の場所を一瞬にして幻想的な世界へと変えていった。それでも人々は 忙しなく動き回り、ある者は肩を縮ませながら帰路を行き、またある 者はしっかりと着込んだ服を見にまといながら自分の仕事場へと歩い ていく者、買い物をしている若者、遊んでいる子供達、寒い中立ち止 まって話すご婦人達の姿。皆真っ白な雪に溶け込まないようにそれぞ れが思いのままの色彩を身にまといながら、それぞれの時間を過ごし ていた。そしてその様々な人たちが行きかう場所に、ハウルとソフィ ーはやってきていた。
「今日の夜ご飯は、何か温かいものを作ったほうがよさそうね」
真っ白なマフラーを首元に巻きつけたソフィーは手袋で覆われた両手 を、口元に持っていき、すっかりと冷えてしまった両手に息を吹きか けながら言葉を吐き出した。言葉と一緒に口から吐き出された真っ白 な吐息は、宙を漂った後すぐに空気に溶け込んでしまいその姿は一瞬 にして雪景色吸い込まれていく。ソフィーの一歩後ろの方を歩くハウ ルは珍しくあまり派手ではないロングコートを靡かせながら、小さく 「そうだね」と呟いた。

今日ここにやってきたのは、珍しくソフィーの誘いがあったからだっ た。朝起きた瞬間に、今日はどこかに出かけましょうかと吐き出され た言葉に目を白黒させたものだがせっかくの誘いを断る理由なんてハ ウルの中には存在するわけもなく、数秒後にこくんと首を立てに振り 今に至るというわけだ。
ソフィーが自分を外に連れ出した理由は、何となく見当がついていた。
一昨日くらいからだろうか、自分で言うのも何なのだがソフィーに対 する接し方がどこかいつもと違うようにしていたのは、もちろんソフ ィーも気がついていたことだろうと思う。接し方が違うといっても、 ちゃんと話すし、触れるし、目を見るし、もちろん一緒に眠ったし。 どこが違うのかと言われればどこも違ってはいないのだが、あえて言 うのならば『雰囲気』だろうか。どことなく空気が違っていた。
ソフィーは自分の態度が違っていることに気がついていた。それを僕 はわかっていて、ソフィーが少し寂しそうにして不安がっていたのも 知っておきながらあえて何もしなかったのは、やはり卑怯者なのだろ うか。いや違う、自分はただの『臆病者』だったのだろう。
ハウルは、どんどん前に進んでいって忙しなく辺りを見渡しているソ フィーの後姿を見つめた。小さくて、細くて、可愛い可愛いソフィー。 ソフィーの事を、好きだと思った。
その小さな肩を抱きよせて、骨が軋むほど強く強く抱きしめたい。誰 の目に触れる事無く、自分だけを見つめさせてどこかへ閉じ込めてお きたくなる。誰にも汚されないようなソフィーの無垢な瞳に見つめら れるとはっきりと目を見つめ返すことが出来ない。そして同時にその 無垢な瞳をいつまでもずっと持ち続けて欲しいと思う反面、自分の手 で汚してやりたい、壊してみたいという欲望が潜んでいたりする。
ただただソフィーが愛しくて。こんなにも人を好きになったことがな
くて、感情のコントロールが上手くいかない。
人を好きになるなんてことは、簡単なことだと思っていた。だからこ そすぐに人を嫌いになったりあっという間に興味が冷めてしまうことも 当たり前だと思っていたんだ。だけど、ソフィーは違う。僕は、もう 絶対に、これ以上の恋はしない。いや、出来ないだろう。
だからこそ、伝えたくなったのかもしれない。

「ねえ、ハウル。今日の夜ご飯に出すスープは野菜スープとコーンス ープ。どっちがいいかしら?」
自分より数歩先を歩いているソフィーは、ハウルの方を振り返らない まま両手を後ろ手にくんで明るく問いかけた。
「そうだね、コーンスープがいいな」
野菜は嫌だなと言ったハウルに、ソフィーはまたも振り返る事無くく すっと笑って「じゃあ野菜スープにしようかしら」と呟いた。ソフィ ーは全くこちらを向いてくれなかったので、はっきりと表情を読み取 る事が出来なかったのだが、歩いている道に並ぶ店のショウウィンド ウ越しに、ソフィーの口元が緩やかな曲線を結んでいる事が見て取れ た。ソフィーが言っている言葉が冗談だとわかりきっているハウルは 軽く苦笑いを見せて、「ひどいなあ」とソフィーを責めるわけでもな く、軽く言葉を返した。瞬間、ずっとこちらを振り返らなかったソフ ィーが唐突に自分の方へと振り返り、まるで、まるでそれは真っ白な 幻想的なこの世界に降り立った・・・天使のような顔で。
ソフィーは悪戯が成功した子供のような無邪気を含めながら微笑んで ハウルの方へと振り返った。

----------そう、こんなソフィーの表情を見たときに・・いつも思う。

ハウルは、微笑んだソフィーの笑顔を目に焼き付けながらその笑みを 返すかのように自分もにっこりと微笑んで、沢山の人が行きかう街の 真ん中で人の流れを遮るにも関わらず唐突にその足を止めた。

----------ソフィーの事が。

足を止めたハウルを見て、ソフィーは微笑んでいた顔から一気に不思 議そうなきょとんとした表情へと移り変わり「どうしたの?」と呟や いた。二人は人ごみの中で立ち止まっているせいで、周りが時々迷惑 そうな視線を投げかけているが、ハウルはともかくソフィーまでもが その視線には気がついていないようだ。向かい合わせの形になってい 二人の間には、人が3人ほど入れるような間隔があったのだが、どち らからもその間隔を埋めようとはせずに、一定の距離を保ったままだ った。真っ直ぐに自分を見つめてくるソフィーは、この白い雪の中に 分も、格好悪い自分も全部受け止めて何もかもを許してくれそうな気 がする。だからこそ、だからこそ。

----------愛しいと。

「ソフィー」
唐突に想いは溢れ、その時急に言葉にしたくなった。いつまでも答え を聞くのが怖くてうじうじしてた自分が馬鹿みたいに思えて、ハウル は自嘲気味に笑みをこぼした。こんなにも街には人が溢れているにも 関わらずハウルの目に映るのは、ただ一人の人物だけで。あたりは幻 想的に彩られた真っ白な色だけ。建物も人も何もかもがその時は色を 失って、目の前に立つソフィーの赤がね色だけが鮮やかに映る。
ソフィーは返事をしないまま、気だけをしっかりとこちらに向けた。
「結婚しようか」
・・・瞬間、本当に時間が止まってしまったかのように、ソフィーは 動かなくなり大きく見開かれた丸い瞳だけが、しっかりとハウルを視 界に映し出しているだけだった。息もしていないのでは無いのかと思 うほど、ソフィーは混乱の局地に立たされていて、ハウルが先ほど言 った言葉の意味が、まだはっきりと脳に伝わっていないようだ。
「・・・・・え?」
ソフィーから発せられた言葉は、ハウルが思っていた通りの言葉すぎ て、思わず小さく噴出してしまった。
「あ・・・え?う、あ・・あの・・・」
混乱しまくっているソフィーからは、全く意味を成さない言葉が次々 に飛び出してくる。そして言葉の意味を理解していくのに比例してソ フィーの手が自分の赤がね色の髪へと伸ばされてくしゃりと掴み、同 時にしっかりとハウルを見据えていた顔は俯いて、溢れた涙が一筋ソ フィーの頬を伝い、真っ白な地面へと消えていく。
ハウルは、一歩また一歩とゆっくりとソフィーの方へと近づいていく。
今日、この言葉を言ったのは確かに溢れた想いのせいであって今日こ そ伝えようと思って準備していたわけではない。かといって、軽はず みに、ソフィーの人生を左右する結婚話を持ち出したわけでもない。 ただ、守りたいと思ったから。自分の帰ってくる場所に、ソフィーの 笑顔があればいいなと思ったから。今まで守られるものを求めて、逃 げる場所ばかりを求めていた自分にとって、初めて守りたいと思った 人だったから。
さくさくと真っ白な雪の上に足跡をつけながら、ソフィーの目の前ま でやってきたのだが、別段ハウルは何をするでもなく自分の着ている コートに手をつっこんだままにわかに微笑みながら黙ってソフィーの 前に立っているだけだった。
するとずっと俯きながら涙していたソフィーが唐突に顔を上げて、美 しいその顔を涙で美しく汚し、涙溢れる瞳で一瞬ハウルを見上げた後 ハウルからの唐突なプロポーズの返事と言わんばかりに力いっぱいハ ウルに抱きついた。こんな強烈なソフィーからの抱擁は、もしかした ら初めてかもしれない。ハウルはソフィーの抱擁に応えるようにポケ ットから手を出して、触れるくらいの力加減でソフィーを抱きしめた。
「・・・そんな事、こんなところで言うものじゃないわ!」
涙声でそう叫ぶソフィーは一層力をこめてハウルを抱きしめて、最後 に小さく「ばか」と呟いた。綺麗な雪景色の中だといってもここはや り、人々が多く行きかう道の・・それもど真ん中。人々はこんなとこ ろで抱き合っている二人をよけながら歩きつつも、何だ何だと不思議 そうに見るものもいれば、小さく冷やかしをかける人たちもいる。
ハウルはソフィーの言葉に、思わず苦笑いを漏らした。
「みんな見てるよ、ソフィー」
辺りをぐるりと見渡してみても、皆足は止めてはいないものの視線の 先には常に自分達がいる。しかし、いつもはこんな目立つようなこと は、極力避けて通るはずのソフィーも珍しくそんな視線にも負けず、 ハウルに抱きつく力を緩めようとせず、嗚咽を漏らしながら必死にハ ウルの胸に頭を預けていた。
ハウルは、くすっと小さく笑いを漏らして自分の胸の中で歓喜の涙に 溺れる我が『妻』の頭にそっとキスを落としてソフィーに負けないく らい強くソフィーを抱きしめた。
「ソフィー・ジェンキンス、か」
きっと、このまま城に帰っても恐らく二人はこれまでの関係とあまり 変化は無くて、夫婦になったといっても毎日喧嘩して怒鳴りあって笑 いあって仲直りして。今までと同じように、同じ生活を繰り返してい くんだろうと思う。今まで大切だった人が、さらに大切になっただけだ。
「結構似合ってるんじゃない?」
ソフィーは、またしても小さく「ばか」と呟いて、最後に・・・、
「当たり前じゃない」と呟いた。