いつものようにソフィーの店に遊びに来ていたハウルはソフィーの店の前で立ち止まると、大きく目を見開いてソフィーの店を見上げた。
「・・・休み?」
この時間ならばソフィーが動き回ってくるくると忙しそうに働いている姿が見える時間だというのに、ソフィーの店には珍しくカーテンが掛けられていて『CLOSE』の札が悲しげにぶら下がっている。
カーテンの隙間から中を覗き込んでみても真っ暗で当たり前だが花も飾られている様子もなく人の気配も感じられない。あんなに仕事大好き人間が店を休みにするなんてただ事じゃない。何かあったのではないかと思ったハウルは一目散に玄関へと走っていった。


HEARTLESS<<8>>


窓の外から見上げる空は青々と晴れ渡り、きっとこの天気の下ならば花達も元気な姿を見せてくれたんだろうなとソフィーは思った。ベッドに横たわり、ほのかに頬を赤く染めて氷水で冷やしたタオルを額に当てながらソフィーは小さく咳をすると悲しげにため息を吐いた。
ここ数年、多少の熱が出ることはあっても寝込むまで熱を出したことはなかったのに今日に限っては立ち上がることもままならないぐらい体が悲鳴を上げていた。昨日ハウルと出かけて帰ってきた時にはなんてことなかったのに、今日の朝目が覚めたときには まず体が鉛のように重くなっていて、頭が割れそうなくらい痛かった。何とか立ち上がっていつもどおり店を開ける準備をしたものの、どうにもやること成すことに集中することができず、歩いてきた道を戻ってみればありとあらゆるものが散乱しており、 それでもまだ頑張り続けていたソフィーも陽が昇頃にはさすがに自分自身に限界を感じ、大人しくベッドにもぐりこんだ。この家には今はソフィーしか住んでいないため看病してくれる人などだれもおらず、自分自身で氷水などを準備しなくては ならないのだが、それがまたソフィーには死にそうなくらいしんどかった。できるだけ小さい容器に氷水を入れて、しっかりと水分をとらなくてはいけないと思いつつもベッドの近くにあるのはコップいっぱいの水だけ。それを準備しただけでもソフィーの 体はもう限界だった。
自分自身でも健康管理には特に気をつけているため、食事の栄養バランスや睡眠時間などには特に問題はないはずだ。朝はだいたい花屋の準備をするために早く起きるので夜明け前には必ず目を覚ましている。食事はどんなに忙しくても摂る ようにしているし、栄養配分も間違いないはずだ。夜は子供が眠るような時間に必ず眠っているし、どこを思い返してみても体調不良になる要因などありはしない。原因が考えられるとすれば・・・・
昨日の夜からずっと考えていたのはハウルの事だった。眠ろうと目を閉じればハウルの顔が思い浮かんできて全く寝付くことができない。どうにかして眠ろうと羊を数えてみたり自分に眠るよう自己暗示を掛けてみても効果はさっぱりだった。
このままではいけないと思いとりあえず無理やりに眠ろうとしても眠れないのだから自然に眠たくなるのを待とうという考えにたどり着き、ホットミルクを飲みながら眠たくなるときを待った。ホットミルクを流し込みながらしんと静まり返った室内に一人で いるとどうしても考え事をしてしまう。それも今日あったできことではなく、ハウルと話していた時の表情や言動や行動などが頭の中に次々と溢れてきてその一つ一つを思い出すたびに体の奥が暑くなってくる。今までどんなハウルの言葉もなんの 感情ももてなかったのに、今日に限ってはハウルに関する全ての事に心臓が飛び出してきそうになる。昨日海辺でハウルがソフィーの手を握り締めながら呟いた一言がソフィーの頭の中に残っていて、今でも目を閉じればそのときの場面が鮮明に 思い出された。考え出すともうすっかりと目が覚めてしまって、手に持っていたカップの中身はすっかり空っぽになってしまっていた。やっぱりこんな事してても眠れないわと思ったソフィーは急いでベッドの中にもぐりこみ、目を閉じながら自分自身に 眠れ眠れと催眠を掛けてみてもやっぱり眠れなくて。結局一晩中ハウルの事を考え続けてようやく眠りに着いたのはもう起きる時間の1時間前だった。そしてすっかりと体に染み付いた習慣のおかげで目が覚めたソフィーは体の重みと酷い頭痛を感じ今に至るというわけだ。
「・・・何もかもハウルのせいだわ」
見慣れた部屋の天井を見つめながら、ソフィーは昨夜の自分を思い出し小さく独り言をつぶやいた。久しぶりの高熱に苦しみながらも考えているのはやっぱりハウルの事ばかりだということに気がつくと、ソフィーはそんな考えを捨て去るようにガバッと勢いよく布団を 引っ張り上げて頭が隠れるくらいすっぽりと布団の中に潜り込んだ。こうやって一日中誰かの事を考えたりしてしまう状態が何を意味するのかソフィーはなんとなくわかっていた。わかっていたが、それを自分自身で認めたくなくて必死にそうじゃないということを 自分自身に言い聞かせていた。こんな状態の自分を見られたあかつきにはなんて思われるかわかったものじゃない。勘のいいハウルのことだ、今のソフィーを見たらきっとハウルは自分の都合のいい風に感じ取るに違いない。幸いにも今日は熱を出してしまったため、 店を開けることができなくなったので、ハウルに会うことはないだろう。そう思うと少しだけ心が落ち着く気がした。思えば昨日もまともに寝ていないのだからとりあえず少しだけでも眠ろう。そう思うと自然と瞼が重くなってきて、睡魔がソフィーを襲ってくる。
意識がどんどん薄らいできて、心地よい夢の中へと誘われていく。
「ソフィー!!」
そのとき、ソフィーの部屋のドアが大きな音をたてて壊れるのではないかと思うくらい勢いよく開かれドアの向こうからものすごい剣幕のハウルがソフィーの部屋に飛び込んできた。もうあと一歩のところで深い眠りに落ちることができていたのにソフィーは ハウルの声と扉を開ける大きな音を聞くと同時にパッと目を覚ましドアが開くのと同じくらい勢いよく体を起き上がらせた。しかし、勢いよく体を起き上がらせた反動で頭が割れるような衝動に駆られ、ソフィーはドアの方に意識を向ける前にこめかみ辺りを 抑えて苦しそうに俯いた。そんなソフィーの様子を見たハウルはすぐさまソフィーの元に駆け寄ってベッドの前で跪くとまるでガラス細工に触れるかのように恐る恐る手に触れると苦しそうに顔をゆがめているソフィーを心配そうに覗き込んだ。
「・・・どうしたのソフィー?大丈夫?」
さきほどとはうってかわって小さな声で囁いたハウルの声に反応して、ソフィーはまだ苦しそうに顔をゆがめながらふとハウルの顔を見つめた。一瞬、ソフィーは何がなんだかわからず頭の痛みに耐えながらちらりとハウルを見ると、一瞬大きく目を見開いた後 驚いて小さな悲鳴を上げると反射的にハウルと距離をとった。ソフィーの頭の痛さは限界に達していたが、そんな痛みなど感じないほどにソフィーは驚いていた。
「なんであんたがここにいるのよ!」
勢いよく言葉を吐き出したせいでソフィーはごほごほと咳き込み、ハウルは心配そうな顔でソフィーの背中をさすろうとしたがソフィーはそれを手で撥ね退けた。咳をするたびに喉に焼ける様な痛みが伴いその痛みに顔を歪めながらもソフィーはハウルから目を離さなかった。
「いつもどおり店にきたら店が閉まってて、中に入ったら部屋が荒れてたからソフィーに何かあったんじゃないかと・・・」
「ストップストップ!玄関には鍵がかかっていたはずよ?どうやってはいったの?」
苦しそうなソフィーを見てハウルもその苦しさを感じ取るかのように同じように顔を歪ませながら、ハウルはソフィーの質問に答えるべくズボンのポケットからきらりと光る鍵を取り出した。何の悪びれもなく出したハウルにソフィーは怒りを通り越して呆れたようにため息を吐いた。
「一体いつのまに?わかってないかもしれないけど、犯罪よ?それ」
返して頂戴とソフィーがハウルから鍵を奪おうと手を伸ばしたが、ハウルはソフィーの手をひょいと軽くよけて再び自分のポケットの中にしまいこんだ。そんなハウルにソフィーはムッとした表情を見せて何度もハウルから家の鍵を奪い返そうと試みたがソフィーの攻撃は いとも簡単にハウルに阻まれてしまい、そして再び訪れた頭痛と体のだるさにとうとうソフィーは力尽きてしまいベッドにバタンと倒れこんだ。もし自分の体が万全であれば鍵なんてどんな手段を使ってでも奪い返してやったのにと思いながらソフィーはハウルを睨みつけた。
そんなソフィーを見てハウルは再びソフィーに向かって手を伸ばしたがソフィーは絶対に自分の体に触れさせまいと必死に抵抗して見せた。しかし、今度のハウルは大人しく言うことを聞こうとはせず、伸びてくるソフィーの手を掴みベッドに片方の手でソフィーの両手を ベッドに押さえつけると片方の手でそっとソフィーの額に触れた。
「熱があるじゃないか!」
ハウルはソフィーの熱の高さに驚いて手を離すと、ソフィーをきちんとベッドに寝かせて布団を被せるといつの間にかソフィーの額から落ちてしまっていたタオルを拾い上げると氷水に浸して固く絞った後ゆっくりとソフィーの額に乗せた。
また少し熱が上がってしまったのかソフィーはハウルに抱きかかえられても何をされても抵抗をすることなく大人しく従っていたが、目だけはしっかりとハウルを威嚇していた。
「熱があるから今日は店を休んでいたんだね。もしかして部屋が荒れていたのも・・ソフィーのせいかい?」
ソフィーはハウルの言葉に少し考えた後こくんと首を縦に振った。先ほど置いたばかりのタオルもあっという間に温まってしまっており、その様子からいかにソフィーの熱が高いかがわかる。ハウルはすぐさまタオルを氷水で冷やすと再びソフィーの額にゆっくりと おいた。
「・・・鍵、かえして」
もう言葉を出すこともままならない状態になっているにも関わらずソフィーはかすれた声でそういうとゆっくりと布団の中から手を出して、ハウルに向かって鍵を返すように促した。そんなソフィーにハウルは困ったように苦笑いを見せてどうしたものかと頭を悩ませた末、 ポケットから鍵を取り出して小さなソフィーの手のひらにポンと置いた。ソフィーは手のひらに置かれた鍵を確認するようにちらりと見た後、再びハウルの顔を見つめた。
「・・・私の鍵じゃないわ」
ソフィーの家の鍵ではない鍵を渡されて、ソフィーは手のひらに鍵を置いた状態のままじろりとハウルを睨みつけた。ハウルはソフィーの言葉に何も返事を返さないままソフィーの手を動かして手のひらに置いた鍵を握り締めるような体勢にさせた。
ソフィーは何の抵抗も見せず、ただなすがままになっている。
「これで勘弁してよソフィー」
謎の鍵を握っているソフィーの手を包み込むようにして上からハウルの手が握り締められ、熱のこもったソフィーの手とは対照的に少し冷えたハウルの手がソフィーの手のひらの熱を奪っていく。それだけでソフィーの体温はまた少しだけ上昇して、 心臓の音が激しく鳴り響く。けれどもそんな心臓の音や心情が決してハウルにもれないようにソフィーは必死で耐えて平静を装いながらハウルを見つめた。
「・・何の鍵なの?」
「僕の家の鍵」
そういわれてソフィーは一瞬目を見開き、握り締められて手を解いて手のひらの中にある鍵をもう一度見やった。人として当たり前の事なのだがハウルもちゃんと自分の家を持っているのだというのを思うとなんだか不思議な感じがした。ソフィーの家の鍵はとても軽い簡単な つくりになっているのだが、ハウルの家の鍵といわれるそれはソフィーの手のひらにずしりと重く圧し掛かりよく見てみればとても綺麗な装飾が施されている。もしこれがハウルの言っていた通り家の鍵だとしたら一体豪邸に住んでいるというのだろう。それとも鍵だけを 綺麗なつくりにしただけだろうか。どちらにせよハウルの家の鍵なんてもらう義理はないはずだ。そう思ったソフィーは鍵を握り締めたままハウルに向かって手を突き出した。
「そんなもの渡されても困るわ。それに私はあんたの家の場所なんて知らないもの。持っていても仕方ないじゃない」
冷たく言い放ったソフィーにハウルはソフィーの手のひらに乗っている鍵を見つめながらうーんと唸ると、珍しく素直にソフィーの手のひらから鍵をひょいと受け取った。もう少し何かしら抵抗をされるかと思っていたのだが意外にあっさりと鍵を受け取ったハウルにソフィーは 拍子抜けしてしまい、ぽかんとした見せながらしばらく手のひらを差し出した状態のまま固まってしまっていた。自分で突っ返しておいてなんだかそこまであっさりと持っていかれてしまうと意味もなく寂しさを感じてしまったが、これはこれでよかったのだと思い直しハウルの 気が変わらないうちに出しっぱなしにしていた手のひらを急いでしまいこんだ。
ハウルはソフィーから受け取った鍵をすぐにポケットにしまおうとはせず、手のひらに置いたまま俯いてしまった。俯いたまま何も離さず動こうともしないどことなく拗ねたような様子を見せるハウルにソフィーは微妙に心が揺らぎながらもふいとそっぽを向いて「早くしまいなさいよ」 と精一杯の強い言葉を吐いた。鍵なんて使わなければただの飾りのようなものなのだからもらうだけなら別に構わないかしらという考えがふとソフィーの頭の中をよぎったが、いやそれではなんだかハウルの思う壺のような気がするとぶんぶんと首を横に振って自分自身に叱咤 の言葉を浴びせるとやっぱり大事なものだしもらうものではないわと思い直した。そこでそういえばハウルから家の鍵をまだ帰してもらってないわということを思い出し、そっぽを向いていた顔を元に戻しハウルの方へと顔を向けたところでソフィーは体が動かなくなった。
「・・・っ!」
振り向いたと同時に目の前に何かが覆いかぶさり、両手をすぐに拘束され、驚いたソフィーが反射的に目を閉じると唇に何かやわらかいものが触れる感触がした。何かを話してくても体を動かしたくてもまるで何かにとらわれてしまったかのように指ひとつ動かせない状況になって いた。体の力が抜けて倒れてしまいそうになるソフィーの体をハウルの大きな手が支えており、そのおかげで余計にソフィーは動けない状態になっている。長い長いハウルのキスに、一体いつ呼吸をしていいものやらわからないソフィーは苦しそうに短く曇った声を上げ、拘束された 手をじたばたと精一杯動かして苦しさをアピールした。するとそのサインに気がついたのかハウルはゆっくりとソフィーから唇を離すと同時に拘束していたソフィーの手を離した。キスが終わった後も平然としているハウルとは対照的に、ソフィーは体を激しく上下させて体全体で 呼吸をしていた。何するのよ!と喉元まで声が出てきているのに、それが言葉として吐き出すことができずソフィーは視線だけをハウルに送り恨めしげにハウルを見つめた。
「言っておくけど、ソフィーが急にこっちに振り向いたりするからこういうことになったんだからね」
しれっとそう言うハウルにソフィーは真っ赤な顔をしてベッドに乗っていた枕を力いっぱいハウルに向かって投げつけた。ハウルはそれをよけることなく見事にキャッチして悔しそうな顔をしているソフィーを見てはふふんと得意げに鼻を鳴らした。
「恥ずかしがらなくてもいいじゃないか、恋人同士なら普通の事だろう?」
「いつ恋人同士になったって言うのよ!」
勢いよく言葉を発したせいでゴホゴホと咳き込んだ。顔にだんだんと熱がこもり、赤くなっていっているのが自分自身でもわかる。それが熱が上がったせいなのか、それとも恥ずかしさからなのか。それがどちらが原因なのかソフィー自身も判断することができない。
ハウルはソフィーの言葉にきょとんとした表情をして真っ赤になりながら自分をにらみつけているソフィーを見ると、ふっと短く笑いを漏らして再びソフィーに近づいてきた。ベッドにちょこんと座っているソフィーの体を軽くポンッと押すと支えのないソフィーの体は重力にならって 簡単に後ろに倒れこんだ。
「きゃっ・・・!」
ぽすんと後ろに倒れこんだソフィーの上に覆いかぶさるようにしてハウルがベッドの上に上ってくる。ソフィーは必死に抵抗しようと体を動かせて見せたがいつの間にか再び拘束されていた手はびくともしない。ハウルの足と足の間にある体はもちろん動かせることが できないし、かといって動く足をどうにかしてもこの状態から逃げられるわけもない。強制的にベッドに貼り付けられたソフィーはごくりと唾を飲み込んで微笑を見せながらこちらを見下ろしているハウルを見つめた。不思議と今の状況に恐ろしさはなかった。
「どきなさいよ!悪ふざけはよし・・・」
「恋人同士じゃないって?」
ソフィーの言葉をかき消すかのようにして吐き出されたハウルの言葉にソフィーは体をびくんとさせた。手を拘束されながら近づいてくるハウルの顔を見て、ソフィーはさきほどよりも激しく抵抗を見せたがハウルから逃れることはできなかった。ハウルの長い金色の髪の毛が ソフィーの頬をくすぐる程度までハウルは顔を近づけるとにわかに微笑み、そっとソフィーの頬に触れた。
「うそつきソフィー」
ぼそりと呟いたハウルの言葉に、ソフィーは何も答えることができずただハウルを見つめることしかできなかった。ハウルを見ているソフィーの目にもう力は入っておらず、にらみつけるどころか真っ赤な顔をしてなんだか今にも泣き出しそうな顔をしている。それが決して悲しさで はなく恥ずかしさから来るものだということをハウルもソフィーも双方がわかっていた。
「さっきからずっと僕の事意識してるくせに。現に今も僕の事を拒めずにいるだろう?」
「それはあんたがあたしの手を掴んで動けなくしているからじゃない」
「だってこうでもしなきゃソフィーは逃げるじゃないか。でも勘違いしないで。僕は体の自由は奪ってもソフィーの言葉までは奪っていないんだから。どけてほしければ突き放す言葉を言ってごらんよ。『どいて、ハウル。あたしはあんたなんて好きじゃないわ』って言ってごらん?」
悪戯っぽく笑うハウルはソフィーはじっと見つめながらぐっと言葉を飲み込んだ。喉元まで出かかっているのに、それを吐き出すことができない。
「手を離して頂戴、ハウル」
ぐっと手に力をこめてハウルの呪縛から逃れようとしてもハウルは逃がしてくれようとはしてくれなかった。
「ソフィー、それだけじゃ手を離してあげられないね。もうひとつ言い忘れている言葉があるだろう?ほら、言ってごらんよ」
そういってハウルの手がソフィーの髪を一束掴みさらりと手を滑らせていく。ハウルの声が耳から脳へと響き渡ると全身が麻痺してしまったかのように動けなくなってしまう。どくんどくんと全身が波打ち、息を吐くことさえ苦しくなってくる。ハウルから漂ってくる花の香りが、 ソフィーの意思を酔わせた。
「・・・言えないの?ソフィー」
僅かに口元を緩ませながらハウルはそう言うと、ゆっくりとソフィーに顔を近づけてくる。ソフィーの心臓は飛び出してきそうなほど高鳴っており、それはハウルの顔が近づいてくるたびにどんどん速さを増していく。次にくる行動がどういうことを意味するかちゃんと頭では理解している のに、それを拒むことができない。ゆっくりと目を閉じるハウルに、ソフィーもゆっくりと目を閉じた。ソフィーは体がふわふわとしてきて、まるで空を飛んでいるような錯覚に陥っていた。自分はいったいどうなってしまうんだろう・・・。
「姉さん!どうしたのこの部屋!もしかして泥棒・・・・」
ソフィーがふと目を閉じたそのとき、バンッ!とハウルが入ってきたときと同じような音を立てながら扉が開かれて、ひとりの少女が顔を覗かせた。長いストレートの黒髪を腰まで伸ばし誰もが振り返ってしまいそうな美貌を持つその少女の表情は、不安そうに顔をゆがめていた。
けれども扉の中に足を踏み入れた瞬間、ベッドに組み敷かれたソフィーの姿と見たこともない男が両手を押さえつけている姿を見て不安げな表情が一気に驚きと怒りが入り混じった恐ろしいものへと変わり、きょとんとして自分を見ている二人に対して悲鳴に近い声を上げた。
「レティー!」
するりとソフィーはハウルの呪縛から逃れ、混乱している少女にかけよるとその少女は安心したようにソフィーを抱きしめて、同時にぽかんと状況を把握できずにいるハウルに向かって殺意を込めた視線を投げつけた。乱れた室内と、見たこともない男。そして組み敷かれた ソフィーの姿。その項目をすべて混ぜ合わせたときにハウルが一体何者なのか、レティーの中でそれはすぐに答えが出たようだ。まさかと思ったソフィーはとりあえずハウルは泥棒とかじゃないわよと必死にレティーに訴えたが、怒り狂った少女にはソフィーの声は全く届いて いなかった。ハウル自身も少女の視線を見て慌てて弁解を試みたが、ハウルの行動はさらに少女に不信感を持たせただけのものになっていた。
「出てけ!泥棒ー!!」
レティーがそう叫んだ瞬間、レティーは近くにあった花瓶を掴むと何の躊躇もなくハウルに向かって投げつけた。投げられた花瓶はものすごい勢いでハウルの顔めがけて飛んできた。ハウルがそれをさらりとかわすと花瓶は激しい音を立てて壁にぶつかり、原型をとどめないほど 粉々になって床に飛び散った。そのかけらを見てハウルとソフィーは顔を真っ青にしてレティーを見ると、レティーはあたらなかったことに不満を持っているのか、今度は別の場所にあった花瓶を手に掴んだ。まずいと思ったソフィーは花瓶を持っている少女の手を精一杯掴み、 次の行動を止めるべく何とか少女に呼びかけた。
「待って、待って頂戴!レティー」
ソフィーの叫ぶような言葉に少女はようやく平静を取り戻したのか、手にしがみついているソフィーの姿を見てやっと肩のちからを抜いた。ソフィーは少女の手から花瓶を奪うと元に位置に戻し、ぎゅっと少女を抱き締めた。
「大丈夫よ、レティー。あの人は泥棒じゃないの。ハウルはただの・・・」
そこでソフィーの言葉が途切れ、同時に少女の体にソフィーの体重がずしりと圧し掛かった。
「ど、どうしたの?姉さん!」
すっかりと意識をなくしてしまったソフィーに少女は戸惑い何度もソフィーに声を掛け続けたが、ソフィーがその声にこたえることはなかった。今にも泣き出してしまいそうな少女の元にハウルは恐る恐る近づいて行く。少女は警戒した表情でハウルをにらみつけてソフィーを守る ようにぎゅっと抱きしめた。
「そんなに警戒しないでほしいな・・・。ソフィーもさっき言ってただろう、泥棒とかじゃないって。今日はソフィーは熱があって寝込んでいたんだよ。たぶん熱が上がってきたんだと思うんだ。ベッドに運びたいからソフィーを渡してもらっても・・・いいかい?」
警戒心をむき出しにしている少女にハウルは機嫌を伺うようにして慎重に言葉を吐いていく。ハウルの言葉にいまだ半信半疑の少女はじっとハウルをにらみつけていたが、抱きしめるソフィーの体温が尋常ではないことに気がつくと苦虫を噛み潰したような表情を見せた後、 小さな声で「お願いするわ」と呟いた。

ベッドに寝かせて額に冷えたタオルを乗せてあげると息の荒かったソフィーの息が多少安定したように思えた。熱はまだあるが、先ほどに比べたらだいぶと引いてきた気がする。このままゆっくりと眠ることができたのならば恐らく目が覚めたときにはだいぶと体がすっきりとしている ことだろう。
「で、あんたは誰なの?」
ソフィーが落ち着いてきた頃に少女はまだ警戒心を解いてはいないのかナイフのような言葉でハウルに聞いた。ハウルはちらりと少女の顔を見てはうーんと考え込んで、小さな声で「似てないなあ」と呟いた。質問した言葉に全く答える気がないハウルに少女は頭に血が上りそうに なるのを必死に堪えた。そんな少女の心情を知ってか知らずかハウルは少女のほうを見てはにっこりと微笑んだ。
「さっき姉さんって言ってたけど、君はソフィーの妹かい?」
やっぱり質問に答える気がないハウルに少女はふつふつと沸いてくる怒りを必死に抑えながら「だったら何よ」と多少声を荒げて返事を返した。
「名前は何だっけ?エイティー?」
「レティーよ!」
馬鹿にしたようなハウルの言い方にレティーは今にも火山が爆発してしまいそうな表情をしていたが、声を荒げた後ソフィーが小さく唸り声を上げたのを聞いてハッと我に返ったレティーは口に両手を添えて湧き出す怒りをぐっと抑えた。もう少しで目を覚ましてしまいそうになった ソフィーにハウルが優しく頭を撫でると、ソフィーは歪めていた顔をふっと戻してまたしても深い眠りに落ちていった。やさしげな表情でソフィーを見つめているハウルは、ソフィーが眠った後も愛でるように何度も何度も頭を撫で続けていた。
「あんた、本当に何者?まさか姉さんの恋人じゃないわよね」
そんなハウルとソフィーの雰囲気を見て、レティーは否定してほしいという願いを込めて冗談ぽくハウルに問いかけた。どうみてもハウルとソフィーではタイプも違うし話も合うとは思えない。そもそもこんな男にソフィーが簡単にひっかかるわけなどないと思っていたのでレティーも 軽い気持ちで聞いただけだった。
「そのまさかだったりして」
「・・・!」
決して出てきてほしくないと思っていた言葉がハウルの口から出てきた瞬間、レティーは頭が真っ白になった。まさかこんな何も考えていないような男に引っかかってしまったのだろうか。この男の言葉だけならば馬鹿な冗談はやめてくれと一笑してやるところだが、さきほどの ふたりの穏やかな空気を見た後ならばすぐに否定することもできない。
何を考えているのか手に取るようにわかるレティーを見てハウルはにっこりと微笑み、「冗談だよ、冗談」と軽く笑い飛ばした。
「残念ながらまだ恋人じゃないよ」
そういうとレティーは安心したように胸をなでおろし、「そうよね」と小さく呟いた。そこまで安心しなくてもとハウルは思ったがレティーにそれを言う事はなかった。
「まだって事は先にはありえるってことかしら」
「だといいね」
「私は反対よ。あんたみたいにチャラチャラした男」
レティーの言葉にハウルは小さく笑って「気持ちのいいくらいはっきりと言う子だなぁ」と呟くと、レティーはふんと顔を横に背けて腰まで伸びた長い髪の毛を鬱陶しそうに手で払いのけた。まじまじとレティーの顔を見てみると、ソフィーもそうだったがとても整った顔をしている とハウルは思った。ソフィーが可愛らしい美人だとしたら、レティーは綺麗な美人という感じだ。これくらいの美人ならばさぞかし多くの御仁から声を掛けられているのだろう。もう少し早く出会っていればきっと自分も声を掛けていたに違いない。
そんな事を思ってじっとレティーを見ていると、ハウルの視線を感じたレティーがハウルの方を見て視線が合わさったと同時に訝しげな表情を見せながら「何よ」と本当に嫌そうな顔でハウルをにらみつけた。レティーに睨み付けられたハウルは肩をすくめて「何も」と言うとぐっすりと 眠っているソフィーを見て、ぬるくなってきた額のタオルを冷水につけて冷やすと再びソフィーの額におきなおした。
レティーはそんなハウルの横顔を訝しげな表情で見つめていた。
きっとこの男は自分の前だからソフィーに優しくしているだけであって裏ではとんでもないことを考えているに違いないと思っていた。ソフィーは昔からすこしおっとりしていてお人よしな部分があるからきっとこの悪い男の口車に乗せられていいように利用されているに違いない。 ソフィーはだませても自分はだまされるものですかとレティーは大きく鼻を鳴らし、しばらくハウルを睨みつけていた。
そのとき、レティーはある擬似感を覚え一瞬動きをぴたっと止めた。金色の長い髪をなびかせて、整った顔で微笑み掛ける男の姿。『あの人』がどうしても会ってはいけないというから直接会った事はなかったけれど、どうしても気になったから『あの人』に内緒で一度だけ部屋を 覗いた時に見た顔と全く同じだった。美しい装飾品で囲まれた室内に、大きな窓。そこから見える景色はとても綺麗なのに、この部屋のカーテンはいつも閉まっていた。覗き見た先にあるのは『あの人』とその隣で話している金色の髪の男。ずいぶんと遠くから覗いていたのにも 関わらず男はすぐに自分の存在に気がついて、目があったと思ったらにっこりと微笑まれた。驚いたレティーはすぐに顔を引っ込めて『あの人』に怒られてしまうと思い一目散に駆け出した。そう、確かにこの男はその場所にいた。名前は確か・・・
「ハウエル・ジェンキンス」
ハウルはその言葉を聞くや否やビクッと体を震わせて、驚いたような表情でレティーを見つめた。この名前で反応をしたその瞬間から、レティーの中で予想されていたものは確信へと姿を変えた。
「やっぱりあなたハウエル・ジェンキンスなのね。見たことある顔だと思ったわ。ベンがよくあなたの事話していたもの」
『ベン』という名前にもハウルは反応を見せ、とたんに驚きを見せていたハウルの表情が一変して、小さな笑みをこぼしたかと思えば口元を歪めてレティーを見つめた。
「何だ、レティーってサリマンの子猫だったんだね。そういえば何度かレティーって言葉を聞いたような気がするよ。あの堅物の口から女の名前が出るなんて珍しいと思ったんだ。世間は狭いねぇ」
「姉さんはこの事知ってるの?」
レティーがそう尋ねるとハウルはソフィーを見つめながら「いや」と短く返事を返した。そしてハウルがソフィーの頬に触れようと手を伸ばしたとき、いきなりハウルの手元に光が集まり瞬間バチッと何かが弾ける音がしてハウルは反射的に手を引っ込めた。危うく手が丸焦げになる ところだったと自分の手をさすりながらハウルは隣で殺気立っているレティーを見つめた。
「これを教えたのはサリマンかい?」
もう少し手を引っ込めるのが遅ければハウルの手は大惨事になっていたかもしれないと言うのにハウルはいつもと変わらない表情でレティーに問いかけた。けれどもレティーはハウルの言葉がまるで耳に入っていないような表情でじっとハウルをにらみつけている。サリマンもとんだ 暴れ猫を飼っているものだとハウルは小さくため息を吐いた。
「ベンからあなたの事いろいろ聞いてるわよ。『いろいろ』ね」
「サリマンの事だ。僕がいかに仕事熱心な男か熱弁してくれたんだろうね」
「二度と姉さんに近づかないって誓って頂戴。そしたら姉さんにはあなたの事だまっていてあげるわ」
「それは難しい要求だね」
ハウルは困った表情をして見せたがハウルの雰囲気からは全く困っているような様子は微塵も感じられず、レティーの言葉にも全く臆していないハウルにレティーは隠し切れない怒りを露にしながら今にもハウルを殺してしまいそうな形相で睨みつけていた。
「怖い怖い。このままここにいると君に殺されてしまいそうだよ。でもレティー、よーく考えてくれよ。サリマンは今とても大事な仕事を任されているみたいなんだ。僕は断れって言ったんだけどね、お人よしサリマンは引き受けてしまったんだよ。とても面倒くさいその仕事をサリマンは 一人でやろうとしているみたいなんだけどさ、さすがに僕も鬼じゃない、手伝ってやろうと考えているんだけどね。レティーにそんなことを言われてしまうと僕も気が変わってしまいそうになるよ。あんな仕事、一人でやった日にはサリマン寝る暇もなくなって死んじゃうんじゃない?」
にっこりと微笑みながらそういうハウルは顔面蒼白になっているレティーの前にしゃがみこみ「どうする?」と呟いた。レティーは数日前にサリマンからこれからすごく忙しくなりそうだと告げられたことをふと思い出した。仕事内容を軽く聞いてみたが、レティーには難しすぎて全く 理解することができず、複雑な仕事なのだと言う安易な感想しか持つことができなかった。目の前にいる男は人間じゃない、レティーはそう思った。
「最低な男だわ」
そうハウルに告げるとハウルはにっこりと微笑んで立ち上がり、悔しがるレティーの顔に満足そうな表情を浮かべると扉の方へと近づいていく。レティーはそこから動くことができず、すやすやと深い眠りに落ちているソフィーを見つめながら心のなかでごめんなさいと謝罪を述べた。
「今日はお暇させてもらうよ。せっかく久しぶりに会ったんだから姉妹水入らずで仲良くしておくれ」
『また』ね、レティー。
そういってハウルは風のようにその場を後にして静かに扉を閉めた。ふと先ほどレティーが無我夢中で投げた花瓶がばらばらになって落ちていた箇所を見てみればそこにはもう何もなかったかのように綺麗さっぱりと掃除されていて花瓶が当たったことによりへこんでしまった壁も 傷ひとつない綺麗な元の状態へと戻っていた。ハウルはずっとレティーと話をしていてそんな暇なんてひとつもなかったくせに。そう思うとレティーは悔しくてたまらなかった。