HEARTLESS<<7>>
何かを見て感動したり、何かをしてもらってうれし泣きをすることは今まで数回ほどあったが、何かがつらくてとか悲しくてという感情で涙を流すことがまったくといっていいほどなかったソフィーは久しぶりに流す涙に 戸惑っていた。父親の死以来流すことなかった涙は、蓄積された悲しみをすべて出し切ってしまいそうになるくらい止め処なく溢れてはソフィーの頬を濡らしていく。先ほどまでは興奮してしまっていて自分が今どんな 状況にいるのかがわからずただ泣き続けることしかできなかったが、ハウルに頭を撫でられているうちに心がどんどん落ち着いてきて頭の中がスッとしてくるとハウルの胸の中に顔を埋めている自分に気がつきすっかり 涙は止まったのにも関わらずいつのタイミングで顔を上げていいのかがわからずしばらくハウルの胸の中でじっとしていた。そんなソフィーの姿をハウルは知ってか知らずかソフィーの背中に手を回して片方の手でずっと ソフィーの頭を撫で続けている。腰にあてている手にぐっと力がこもると、ソフィーの体が更にハウルに密着する形となり、ハウルの撫でていた手がぴたりと止まると頭の先に僅かにキスが落とされた。内心叫びたい 気持ちのソフィーも顔を上げるタイミングが合わずされるがままの状態になっている。ハウルのキスの嵐は頭からこめかみに、こめかみから頬に、頬から首筋に首筋から・・・
「こらー!!」
真っ赤な顔をしてソフィーが顔を上げると、ハウルに向かって大きく手を振りかぶったがソフィーの手はハウルにあたることなく宙をかき、それを見たハウルはいたずらっぽく笑って見せた。
「慰めてくれた人に対してその態度はないんじゃないの?」
「うるさいわね!誰も慰めてほしいなんていってないわ!元はといえばあんたが・・・!」
「僕が?」
そこまで言ってソフィーはしまったという表情で両手を口に押さえると、誤魔化すようにくるりと踵を返してハウルに背を向けると小さな声で「なんでもないわ」と呟いた。あたし何を言おうとしてるのと自分自身に叱咤の言葉を 浴びせた後、このままでは不自然だと思ったソフィーはごほんと咳払いをするともう一度ハウルの方へと向き直った。ソフィーがハウルの方へと向き直り、不思議そうな顔でこちらを見ているハウルと目が合った瞬間、ソフィーは ハウルの後ろに黒い何かが蠢くのが見えて、小さな悲鳴を上げた。あたりがすっかりと暗くなってしまったせいで、はっきりとその姿を確認することはできないが、黒い大きな塊が確かにこちらに向かってきていることだけはわかる。
先ほどまで真っ赤になっていたソフィーの顔もいまや真っ青になっていて、姿が見えない黒い物体に驚きうまく動けないでいた。するとハウルはソフィーの叫び声に反応してくるりと自分の背のほうへと視線を向けると、驚いたように 肩を上下に動かした後、反射的にと言っていいほどすばやく黒い物体めがけて大きく足を振り上げた。
「きゃっ!」
「あ」
ハウルとソフィーの短い声が同時に出されると、ハウルの足と何かが激しくぶつかる音がして黒い物体からなにやら鈍い声が聞こえるとその物体はそのままバタンと後ろに倒れて全く動かなくなってしまった。ハウルは反射的に 蹴り飛ばしてしまったことにまずいと思ったのかすぐさま倒れこんだ謎の物体へと駆け寄った。
「な、なに・・・?」
ソフィーは驚きと恐ろしさでその場から動くことができず、謎の物体に近づいて行くハウルに恐る恐る聞いてみた。するとハウルはその物体を見るや否やちらりとソフィーの顔を見て、ちょいちょいとソフィーに手招きをしてこちらに 来るように指示をしてきた。最初はソフィーは首を横に振って拒否をしていたのだが、ハウルはしつこく何度も手招きをしてくるので根負けしたソフィーも一歩一歩重い足を動かしながらハウルに近づき、ハウルが指差すとおり 恐る恐るその黒い物体を覗き込んだ。
「わっ!」
その姿を見た瞬間、思ったよりも大きく出てしまった声に驚いたソフィーは反射的に口に両手を押さえて足を1・2歩引いてしばらくしてからその物体を確認するようにもう一度その物体を覗き込んだ。
「すっかりと忘れてたわ」
そこにはソフィーが涙を流した事ですっかりと忘れられていた人売りが紳士とは言いがたい格好で仰向けに倒れこんでいた。きっちりと締められていた蝶ネクタイもどこかへ飛んでいってしまい、上質なスーツは2度倒れたことにより すっかりと泥だらけになってしまっている。目が覚めたときにハウルの姿が目に入り、持っていたナイフでハウルを刺そうとでも思っていたのか、仰向けに倒れて気を失っている男の手には鋭利なナイフが握られていた。ハウルが 反射的に足を振り上げていなかったら今頃どうなっていたのかと思うとゾッとする。ソフィーは目の前にいる男が完全に気を失っているとわかっていてもいつ目を覚ますかわからない恐怖感からだんだんと気分が悪くなってきて、ハウルの 袖をぎゅっと握り締めるととにかくここから離れたいと呟き苦しそうな視線をハウルに向けた。ハウルはソフィーの訴えにすぐさま首を縦に動かすとソフィーの手を握り締めてゆっくりとその場から離れて人々が行きかう大通りへと歩き 出した。その間、ソフィーは何度も何度も後ろを振り返り男が目を覚まして自分達を狙ってきていないかを執拗に確認していた。
××××
こんなに人が恋しいと思ったことはないことはないと思うほど孤独感に支配されていたソフィーは、久しぶりに見る沢山の人々にようやく緊張の糸が解けて安堵のため息を吐いた。人々で溢れていた大通りも昼間に比べればずいぶんと 人は減ったもののそれでもまだ多くの人々でにぎわっている人の波を縫うようにハウルはソフィーの手を引きながら進んでいき、大通りで足を止めるかと思いきやそのまま大通りを抜けてさらに奥へ奥へと進んでいく。
「どこへ行くの?」
てっきり大通りへ着くと同時に足を止めると思ったソフィーはまだまだ足を止めようとはしないハウルに向かって不思議そうにたずねたが、ハウルはソフィーの手を引いたまま振り返ることなく「内緒」とだけ呟いてさらに奥へと進んでいく。
人通りの激しい大通りを抜けて先ほどソフィーが迷ったような路地裏を通り、入り組んだ道を曲がったり下ったりしているうちに新たに足を踏み入れた道は先ほどの大通りに比べるとずいぶんと道も狭まりぽつぽつと人が道を通るために 必要な最低限の光が輝いていて、ずいぶんと人の姿が減ったように思える。あまり話し声も店から聞こえる音楽も聞こえないため、周りの音やハウルの声がよく響く。この場所がハウルの目的地なのだろうかと思っていたのだがそうでは なかったようで、一瞬足を止めたハウルも再びソフィーの手をひいて歩き始めた。
「ソフィー、何か聞こえない?」
ハウルの言葉にソフィーは耳を澄まして辺りの音ひとつひとつに意識を集中させてみたのだが、二人が歩く音と時々すれ違う人々の話し声以外特に気になる音などない。辺りを見渡してみても普通の民家や店などが並んでいるだけだ。
「何かあるの?」
「内緒」
不思議そうに尋ねたソフィーにハウルの返事は相変わらず「内緒」の一言だけだった。一体自分達が向かう先に何があるというのだろうか。もう一度辺りを見渡してみてもやはり先ほどから景色は同じようなものたちばかりで、歩いている 先に見える景色も恐らくは同じようなところだろう。ハウルに言われたとおり、歩いている最中にもソフィーはずっと耳を済まし続けているが、特に気になる音などひとつもない。
するとハウルは道の途中でまたしても路地裏のような細い道へと入っていき、道の更に奥へと進んでいく。道の先には出口らしきものは見えるものの、光も建物も何も見えない本当の闇しか見えず不安げにハウルを見ると、ハウルはそんな ソフィーの顔を見てはにっこりと微笑むだけだった。ゆっくりと闇へと近づくにつれて、歩く道が固いレンガの道から徐々にざらざらと砂が混じるようになってきて、闇に近づくにつれてそれはますます濃くなっていく。同時にふと嗅いだ事が あるような独特の香りが漂ってきてソフィーはふと足を止めた。しんと静まり返った夜の闇に目を凝らすと目の前に広がる闇からは何も見えはしないが、目を閉じて耳を済ませてみればそこにはかすかに聞いたことあるような音が聞こえる。
今にも消え入りそうなくらい微かなものではあるが、それは確かにソフィーの耳に届いた。ゆっくりと足を動かして一歩、また一歩と真っ暗な夜の闇の中に近づくほど、その音は大きくなっていく。それが一体何の音なのか。答えはもうわかっていた。
「うみ?」
細い路地裏を抜けると、そこには一面の海が広がっていた。残念ながらすっかりと陽は落ちてしまっていたので暗闇の中での海しか見えなかったが、それでも街の僅かな光を受けて波が寄せては帰っていく姿が見えた。暗闇の中でその存在 を主張するかのように波は大きく音を立ててソフィーたちを出迎える。砂浜へと降りる階段を下って砂浜へ下りると、柔らかな砂に一気に足が埋もれてしまいあっという間にソフィーの靴の中は砂だらけになってしまった。ブーツを履いている ハウルは小さく叫んだソフィーを見てはくすくす笑ってはだしで歩くよう薦めた。仕方なくソフィーは靴を脱ぎ、両手で靴を持ちながらハウルの少し後ろをついていくような形で歩き始めた。さらさらとした砂は日中の温度をどこかに閉じ込めて いたのか足を砂の中に入れるたびに足元を包み込むように暖かな温度が伝わってくる。最初はなんてやっかいな砂だろうかと思っていたが、直接砂を肌で感じ取っているうちにだんだん砂の中に埋もれていくその行為が楽しく思えてきて ソフィーの顔は自然と弧を描いていく。
ハウルの歩幅の広い大きな足跡と、その後ろを追いかけるようにソフィーの小さな足跡が並んで砂浜に長い道を作っている。少し先を歩くハウルが僅かに振り返り砂とじゃれるソフィーのほうに手を差し出すと、ソフィーはその手を何の躊躇も なく掴んで、再びハウルとともに歩き出した。
「嫌な思い、させたね」
ふとハウルが唐突に言葉を吐いて自嘲気味の笑みをこぼしながらソフィーの顔を見つめた。ソフィーは一瞬何のことだかわからずに不思議そうな顔でハウルを見つめていたが、ハウルの悲しそうな笑みを見つめ返しているうちにお昼頃に 起きた出来事を思い出してソフィーはYESともNOとも言えず複雑な表情を浮かべた。
「助けもしない酷い男だと思ったかい?」
その言葉にはソフィーはすぐに首を横に振って返事を返した。
「少し、座って話をしようか」
ソフィーがこくんと首を縦に振ったのを確認するとハウルはまっすぐ砂浜を歩いていた道から外れて少し歩いた所に見える広々とした階段に座るとすぐ隣にハウルも腰を下ろした。しんと静まり返った海には人はほとんど見られず、時折 人の話し声が聞こえてくる程度で、あとは常に聞こえてくる波の音だけが響き渡っていた。夜に見る海は綺麗というよりはほんの少しだけ怖い感じがする。けれども目を閉じて波の音だけを体の中に取り込めば、不思議と安心をしてしまう ソフィーの中で海はとても不思議な存在だった。
「今日あった二人の女性は、昔のちょっとした知り合いでね。見てわかると思うけど、彼女達はそれなりの地位を持った貴族の娘なんだ。ほしいものは絶対に手に入れるという貴族ならではの考えを持っていてね。ふたりともタイプは違う ように見えるけど、中身は全く一緒の魔女みたいな女達さ。だから関わりたくなくてソフィーが酷いこと言われても何も言わなかった。ソフィーも無視をしておけばよかったんだよ」
「馬鹿なこといわないで。初対面の相手よ?どんな人達かもわからないのに無視なんてできるわけないじゃない」
ソフィーはハウルの言葉に半ば呆れたように言葉を吐き捨てた。黙って聞いていればなんて情けない話だろうか。結局は関わりたくないから誰が何を言われていようとお構いなしということではないか。
「ソフィーも黙って何も言い返さないし」
「彼女達の言っていた言葉は、言い方は悪いけれど間違ってはいないわ。すごく悔しかったけど、返す言葉が見つからなかったのよ」
ソフィーがそう言ったと同時にハウルが大きなため息を吐く音が聞こえてきた。どうせまたソフィーは何もわかってないとか言うのだろうがソフィーから言わせてみればわかっていないのはハウルのほうだ。自信家で、ありとあらゆるものを 持っているハウルにはソフィーみたいに劣等感に満ち溢れている人だって世の中に沢山いるんだということをわかっていない。
「最後にあの女達が食事に誘ってきたときにどうする?ってソフィーに聞いただろう?そうすればソフィーはすごい剣幕で怒って行かない!って言ってくれるものだとばかり思っていたんだ。そういってくれたらじゃあ僕も、ってあの女たちと 言葉を交わすことなく離れられると思ったんだよ。けど、最後にソフィーが小さな声で行かないって言った時の顔を見たときに、そこで初めてソフィーの事を傷つけたって思ったよ。正直、その時までソフィーを傷つけているなんて全く気がつかなかった」
ごめんね、ソフィー。
小さく謝罪の言葉を述べたハウルに、ソフィーは何も言うことができずただ俯いていることしかできなかった。あのときの事を思い出すと胸が締め付けられて喉元が熱くなってくる。話を聞けば聞くほどハウルはずるい男だと思う。
けれどもハウルは正直に自分の事を話してくれて、自分の否を認めてはちゃんとソフィーに謝罪をしてくれたのだから純粋に責めることはできない。
「だけどソフィーがどこかに行っちゃった後、あの女達が言ったんだ、『ハウルは見る目ないわね』って。だから言ってやったんだ、『君達も見る目ないね』って。本当は無視をしてそのままソフィーを追いかけるつもりだったんだけど、 無意識に声が出てた」
ふとソフィーは顔を上げてハウルの顔を見つめると、ハウルは悪戯っぽく笑ってソフィーを見つめていた。ハウルはソフィーと目が合うとゆっくりと立ち上がってソフィーが座っている階段の一段下にしゃがみこむとソフィーの右手を取り両手で 包み込むように握り締めた。暖かなハウルの手のひらの温度がソフィーに直に伝わってくる。何かを訴えるようなハウルの視線は決してソフィーを逃がさない。
「怒ってる?」
まるで捨てられた子犬のような顔をしたハウルにソフィーは少し考え込んだ後ゆっくりと首を横に振ると、ハウルはほっとしたように胸をなでおろして安堵のため息を吐いた。そんな顔をされて首を横に触れる女なんてそうはいないだろうと ソフィーは思った。正直今の自分がどんな感情になっているのかソフィー自身にもよくわからない。怒っているのか、悲しんでいるのか、はたまた正直に話してくれた事に対して喜んでいるのか。ただ呆然とソフィーはハウルの声を聞いていたのかも しれない。
「何か言ってソフィー。ソフィーが思ってることを僕に教えて」
ハウルがそういってもソフィーの頭の中に漠然とした思いはあるもののそれをすぐに言葉にすることができず、困ったような表情でハウルを見つめているとハウルがソフィーにつられて少し困ったような表情を見せ、それを見たとたんソフィーは パッと頭の中に文字が浮かんできてそれをそのまま言葉として吐き出した。
「ずるい男」
ハウルは一瞬驚いた表情を見せた後、自嘲気味に笑みを漏らし小さな声で「うん」と答えた。その一言を言い終えた後はまた言葉を失ってしまいどうも言葉が出てこなくなってしまった。どうしてこんな言葉が出たのかソフィー自身もよく わからなかったが、ハウルは少し納得したような表情をしている。夜の僅かな明かりの中でハウルの見ていると、いつの間にか夜の闇の中に溶け込んで消えてしまうのではないかという儚さが感じられる。いつもなら勝手に人を振り回して したいことだけをしてしたくないことは一切しないという唯我独尊のような性格をしているくせに、今目の前にいる男はそんな様子微塵も感じられない。
ソフィーは今にも闇に消えてしまいそうなハウルの存在を確かめるように握られている手をぎゅっと握り返した。ハウルの手の暖かさが、その存在を証明してくれる。自分よりもはるかに大きくて力が強くいハウルの存在が今はなんだか とても小さなものに思えて、ソフィーはハウルを抱きしめたい衝動に駆られた。けれどもその衝動をぐっと抑え、代わりにハウルの顔をじっと見つめた。
ハウルはそんなソフィーの視線を肌で感じながら、握り締めるソフィーの手を自分の額に押付けてまるで何かに祈るようなしぐさを見せた。
「ソフィー。女の子は着飾ったり化粧をしたりすれば誰でも綺麗になるものなんだよ。だけどソフィーは何もしなくても十分可愛いし、綺麗だと思う。ソフィーが信じてくれないなら、信じてくれるまで僕は言い続けるよ。ソフィーはとても魅力的な女性だよ」
唐突なハウルの言葉にソフィーは何も言わずにじっと耳を傾けた。いつもならばふざけた事を言わないでの冗談はやめてだのと反論を加えるところだが、今のハウルの表情からはふざけた感じなど全く感じられず、真剣にソフィーに 訴えている様子をみていると何も言うことができなかった。ハウルのひとつひとつの言葉がソフィーの心の中に波紋を生んでいく。この話の流れからどうしたらその話になるのかしらと、言うつもりだった。けれど、喉を通って吐き出された言葉は・・・
「どうして、私なんかの為にそこまで言ってくれるの?」
何も思っていなかったはずの言葉なのに、するりと言葉が出てきた。ハウルは顔を上げてソフィーと目を合わせると穏やかな表情を見せては、さも当たり前のように言葉を吐いた。
「もちろん。ソフィーが大事な人だから」
大事ってどういうことだろう。心の中に渦巻くいろんな感情がぐるぐるぐるぐる混ざり、新たなひとつの感情をソフィーの心の中に作っていく。それは時々悲しくなるような、苦しくなるような、それでいて幸せになれるような。
体のありとあらゆる細胞が熱をもっているかのごとく体が熱くなってきて、ソフィーの頬はほのかに赤みを帯びてくる。この夜の闇の中で自分の顔が赤くなっていくのがハウルにばれませんようにと願いながらソフィーは なんともない振りを続けた。しんと静まり返った夜の海では、ソフィーの心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。
このなんとも言いがたい感情に名前をつけるならば、何がふわさしいのかしら。そう考えたときにはもうソフィーの中には答えは出ていた。