ソフィーは噴水のある公園のベンチに腰を掛けながら、ちらちらと落ち着きない様子で時計を見上げた。ついさっき見上げたときからまだ 1分ほどしか経っておらず、このもどかしさから早く抜け出したくて早く時がたてばいいと思う反面、どうもまだ一歩を踏み切れていない自分が いて、できれば時間がきてほしくないという間逆の感情がソフィーの中で渦巻き、ソフィーはその居心地の悪さに頭を抱えた。
ふと空を見上げれば空は悲しいくらい青空が広がっていて、子供達の声と鳥達の声が反響しあって街には非常にのどかな空気が流れていた。
ソフィーは大きく深呼吸をすると、先ほどからまだ2分しかたっていない時計をもう一度見上げた。
HEARTLESS<<6>>
「何かお礼がしたいんだけど」
店に入ってくるお客さんもずいぶんと減ったときを見計らって、ソフィーは今にも消え入りそうな声で椅子に座るハウルに向かって呟いた。
店の奥の机で隠れるようにして一人チェスを楽しんでいたハウルは一瞬ソフィーの言っている言葉を理解することができず、チェスの駒を持ち上げた まま不思議そうな顔でソフィーの顔を見上げた。
「だから、お礼」
ぶっきらぼうに先ほどよりもさらにコンパクトにまとめられた言葉(というよりは単語)を吐き出されて、ハウルはますます首をかしげてまずは頭の中に 浮かんでいる疑問をひとつひとつ解決させていくのが先決だと思ったのか、最初に「誰に?」と質問を返した。
「ハウルに」
「僕に?」
ソフィーは真っ赤な顔をしながら腕を組み、ふんと大きく鼻を鳴らしてそっぽをむくと「そうよ」と短く答えた。
「僕にお礼だって?いったいどういう風の吹き回しだい?」
あまりにもソフィーらしからぬ言葉にハウルは思わずくくっと喉を鳴らして持っていたチェスの駒を一度机の上におくと、足を組みながらソフィーと向かい あう形を取り、その真意を見出すようにまっすぐにソフィーを見つめた。
「あんたには店の手伝いとか、ほら、この前は髪を綺麗にしてくれたりしたし、してもらうばかりじゃ私が落ち着かないから何かしといたほうがいいかと思った だけよ。別にいらないならそれはそれで構わないわ」
つんとそっぽを向いて話すソフィーにハウルは頬杖を付きながら意味深な笑みを浮かべると「ふーん」とソフィーの心の中を探るような一言を吐き、机に 置いたチェスを手に取って、軽快な音を鳴らして盤上に駒をおきなおした。
「僕に聞いてきたって事は僕が望みを言ってもいいって事?」
盤上のチェスを器用に動かしながらハウルがそう言うとソフィーは首をこくんと縦に振ったのだが、少し間を開けてから組んでいた腕を解くと 「ただし何でもじゃないわ」と補足を付け加えた。
「あまりお金がかかりすぎるのは無理よ。それから、あとは・・そ、その私が関係することは・・却下よ」
「関係することって?」
きょとんとした表情でハウルが問うと、ソフィーは少し居心地の悪そうな顔をして口をもごもごと動かした後、だから・・とかその・・・などと話そうとはして いるもののなかなか次の言葉が出てこず、そんなソフィーを見て少しもどかしくなったハウルは真っ赤になったソフィーの顔と言い辛そうにしている様子を 見て何かを察したのか何の躊躇もなく言葉を吐いた。
「ああ、キスとかセック・・」
「それ以上口を開かないで!」
まるで晩御飯のおかずを言うかのようにさらっと言葉を発したハウルに耳まで真っ赤になったソフィーは慌ててハウルの口を両手で押さえて、最後まで言葉を言わせまいと空気も漏れない くらいきっちりと口元を押さえた。そのおかげでハウルは少し苦しそうな顔を見せて、口を押さえるソフィーの手を叩きながら苦しさをアピールすると、気づ いたソフィーが慌ててハウルの口から両手を離した。
「殺す気かい>?!」
「あんたが変な事言うからじゃない!」
「ソフィーがなかなか言おうとしないからじゃないか。たかだかキスとセッ・・」
「やめてやめて!!」
真っ赤な顔をして必死にハウルの言葉を制しようとするソフィーの姿がなんだかおかしくてハウルは口元を手で押さえくくっと喉を鳴らし、 笑いを堪えながらソフィーに軽く謝罪を述べた。ソフィーは真っ赤な顔をしながら悔しそうにハウルを睨みつけるとふいとそっぽを向いてしまった。
すっかりとへそを曲げてしまったソフィーにハウルはもう一度ごめんと言葉を吐いたのだが、ソフィーは相変わらずそっぽを向いてしまっており なんだかそんな拗ねた様子を見せるソフィーさえもかわいらしく思えてきて、ハウルはしばらく笑いを堪えるのに必死で言葉をうまく掛けることができなかった。
「何の話をしてたんだっけ?お礼?」
まだ口元をわずかに緩ませながらハウルは唐突に話を元に戻し、頬を含まらせているソフィーのご機嫌を取るようにつんつんと肩を指でつついて、ソフィーが こちらに興味をしめすように促した。まだ若干頬を膨らましながらもちらりと横目でソフィーがこちらを見たのを確認するとハウルはソフィーの気を引くようにわざと らしく顎に手を添えてうーんと唸ってみせて、ソフィーがこちらにちゃんと顔を向けてくれるまでハウルは演技し続けた。
しかし、わざとらしく唸っていたハウルもいつの間にか本当に悩みだしていて、あーでもないこーでもないと頭をフル回転させて考えてみるも頭の 中にはまったくと言っていいほど何も浮かんでは来なかった。ハウルの頭の中ではお礼という言葉を利用して唇を奪ってあんなことやこんなことをしてしまいたいところだが、先に ソフィーに止められてしまってはそう簡単に言えるわけもなく、そういうところだけはしっかりと学習してくれているんだなと感心していいものかどうかと思いながらハウルは小さく笑いを漏らした。 そもそも最初からソフィーにお金を使わせようとなんて思ってもいないし、おいしい食事を自分のために作ってもらう・・とい6うのもありだが、ハウルはちょくちょく寄生虫のように ソフィーの家に居座っては食事を作ってもらっていたので、なんだかここでそれを使ってしまうのはもったいない気がしてハウルはその考えをぱっぱっと頭の中から消し去った。
ソフィーはどんな事を言ってくるのだろうとハウルの楽しみと不安が入り混じったような複雑な表情をしながらハウルの言葉をじっと待っている。
せっかくのソフィーの提案は時間を掛けてじっくりと考えさせてほしいといいたいところだが、この機会を逃してしまうとソフィーの気が変わってしまうような気がして、ハウルは 自分に利益を得られるであろう「お礼」を必死に考えた。
しかし、いくら考えても頭の中に思い浮かんでくるのはソフィーが即却下しそうな男ならではの願いばかりで、いくら考えてもソフィーも嫌がらず自分にも利益がある願いが全く思い浮かばず、 困り果てたハウルは答えがあるわけでもないのに無意識に部屋をぐるりと見渡し、何かないだろうかと見てみるもそこにはいつもと変わらない 店の風景があるだけで、ハウルの答えの助けになるようなものなど何ひとつなかった。ふと窓から見えた空は真っ赤な太陽が沈み始めていて、オレンジ色の空がどんどんブルーグレーの静かな 闇へと色を変えてきていて、人足もすっかりと途絶えた店内はもうすぐで今日の役目を終える時間が迫ってきていた。
・・そと?
窓から見える空の風景を見たとたんハウルは何かを思いついたようにポンっと手を叩き、じっとこちらを見ているソフィーと目を合わせると不気味なくらい楽しげに笑みをこぼした。
「ソフィー、決めたよ」
いきなり楽しげに微笑んだハウルの笑顔がなんだかとても恐ろしく思えてソフィーはハウルの言葉にごくりと唾を飲み込み、なにか妙なことを言おうものならば即座に却下してやろうと 喉元に否定の言葉だけは準備しておいた。
「明日、デートしよ」
「え?」
突然言われた言葉にソフィーは目を丸くして、にこにこと微笑んでいるハウルの顔をきょとんとした顔で見つめた。
「明日一日、ソフィーの時間を僕に頂戴」
「だめよ!」
一瞬何を言っているのかわからず、きょとんとしていたソフィーだったがようやく脳がハウルの言葉を理解すると、喉元に用意してあった否定の言葉がソフィーの意思に関わらずぽんと飛び出してきた。 間髪いれずに入ってきたソフィーの癇癪を起こしそうな否定の言葉も、ハウルにとっては想定内の言葉だったようで余裕の笑みでソフィーの言葉を軽く受け止めた。
「明日は店を開けなくちゃいけないもの!」
瞬間、ハウルはにやりと口を緩ませて待ってましたといわんばかりにソフィーに笑顔を見せた。
「じゃあお礼の話はなしだね」
わざとらしく首を横に振りながら残念そうな表情を見せて、話し始めてからすっかりと止まっていたチェスの駒を動かし始めて一人チェスの続きをし始めた。もちろんハウルは本当にソフィーの 事をあきらめていたわけではなくて、ソフィーの『性格』を知った上で、一番てっとりばやく自分の願いをかなえる最善の方法をとったまでだった。次のソフィーの言葉なんてわかりきっていた。
ハウルの言葉にソフィーはぐっと言葉を飲み込んで、少し恨めしげにハウルを見つめた。ハウルはきっと自分がそういわれてしまうと何も言えなくなってしまうという性格を見抜いて言った言葉なのだろうと 思うと、余計に悔しくて仕方がない。ここで「あらそう、残念だわ」なんて言えたのならばどれだけ楽だろうかと思うが、根が真面目なソフィーは相手に何かをしてもらったまま自分は何も返さないという事が我慢ならず、 相手にしてもらった分必ず自分も返さなければ気がすまなかった。過ぎ去ったことを責めても仕方のないことなのだが、どうしてハウルにお礼内容を決めさせてしまったのだろうかといまさらながらに 思ってしまう。簡単にお菓子でも何でも作って渡しておけばそれだけで済んだかもしれないというのに。今となってはすべてが遅かった。
いつまでたっても俯いたまま何も返事を返そうとしないソフィーにハウルは痺れを切らしたのか、最後の一手をカンッと軽快な音を鳴らしながら盤上に駒を落とてふとソフィーを見上げた。
「まあ、ソフィーが駄目だって言うなら仕方ないよね。さっきの話はなかったことに・・・」
「待って!」
ああ、また言葉が勝手に出てきてしまう。ソフィーは思わず出てしまった言葉に自分自身ですら驚いた表情を見せて口元を両手で押さえると、逃げるようにハウルから視線をそらした。
ソフィーの言葉にハウルは全身で反応を示して、ここぞとばかりにソフィーに詰め寄った。
自分で掘った穴に自分ではまって抜け出すことができずのた打ち回っている自分に気が付いたソフィーは、頭の中で必死に穴から抜け出す方法を考えてみたものの、どれもこれもハウルを前にして うまくいくような策ではなく、あきらめざるを得ないと悟ったソフィーは天に向かって手を合わせるとどうか明日は無事に家に帰って来れますようにと誰に願うわけでもなく心の中でそう呟くと、 目を輝かせてこちらを見ているハウルの目を見ると、複雑な表情は崩さないままゆっくりと首を縦に動かした。
<BR> ××××
<BR> 公園の時計がカチッと小さな音を鳴らすと同時に、公園中に軽快な音楽が響き渡り、同時に時計からは今までは見えていなかった白馬が 姿を現して公園に建てられている時計の周りをくるくると回りだした。誰もが一度は聞いたことがあるであろうその音楽は、朝昼晩と子供達に時間を知らせるために数年前から設置された時計台だった。 最初は白馬など出てくる設計ではなかったのだが、いつのまにか白馬が出るようになっていたという事件はまだソフィーの記憶に新しい。いつ、誰が、どうやってつけたのかという詮索は しばらく続き、噂が噂を呼びこの辺りではもう見なくなった魔法使いが子供達のために白馬をつけてくれたのだという噂が広がると、あっという間にそれが定着してしまい今では完全に魔法使いからの 贈り物として子供達の人気の時計台となっていた。
ゆっくりとした音楽が流れると白馬達も音楽に合わせて軽快な走りをみせ、その動きに魅了されるように時計の周りにはあっという間に小さな子供達で埋め尽くされてしまった。けれども時計の針がカチッと 音を立てて時計の針が進み始めると、音楽も 徐々にその音を小さくさせてゆき、軽快な走りを見せていた白馬達もいっぴき、またいっぴきと時計の中へと消えてゆき、音楽が消えると同時に最後のいっぴきが時計の中へと消えていった。 豪華絢爛に飾り付けられた白馬達が消えていくと周りにいた子供達からは残念そうなため息が漏れ、時計の周りに集まっていた人々も名残惜しそうにしばらくその場に留まっていたものの、 しばらくすると人の足は時計から離れていき、時計の周りから徐々に人が消えていく。
思わず笑みがこぼれてしまうような風景に見とれてしまっていたソフィーは一瞬どうして自分がここに座っているのかということを忘れてしまっていて、人々の波が薄れると同時にまるで魔法でも解けた かのようにソフィーはハッと現実に引戻され、急いで時計を見やるとハウルとの約束の時間はとうにすぎてしまっていた。瞬間、ソフィーの心臓は飛び出るのではないかと思うくらい大きく跳ね上がり、 慌てて人ごみの中に視線を走らせてみるも、まだハウルの存在を確認することができなかったことにソフィーは安堵の息を漏らした。
跳ね上がる心臓をどうにか沈めようとソフィーは手のひらに『人』という文字を3回書くと、この後食べるのか舐めるのか握りつぶすのかどうすればいいのかがわからずとりあえず舐めておけばいいだろう と人という文字を書いた手のひらをぺろりとひとなめしておいた。しかし、いっこうに静まろうとしない心臓に舐めるんじゃなかったのかしらと思ったソフィーはもう一度手のひらに人という文字を 書き、3度では足りなかったのかもしれないととりあえず書けるだけ手のひらに書き続け、今度は舐めるのではなくぱくりと手のひらを食べる振りをしてみた。
すると不思議な事に跳ね上がっていた心臓もちょっと鼓動が早いくらいかなというところまで落ち着き、あ、なんだか落ち着いてきた気がするとソフィーは誰にも見られないように俯きながらわずかに頬を緩ませた。
「何してるの?」
ふと自分の体に黒い影が落とされ不思議に思ったソフィーが顔を上げてその存在を確認すると、そこには不思議そうにこちらを見ているハウルがいて一瞬落ち着きを見せていたソフィーの心臓は さきほどよりもさらに大きく心臓を跳ねあがり、驚いたソフィーは悲鳴を上げそうになった声を必死に押し殺し、両手で口を抑えると目を大きく見開いて目の前に立つハウルを見上げた。
「びっくりするじゃない!」
ハウルは小さく笑いを漏らすと、ソフィーの隣に腰を下ろしおもむろに片手を出すとソフィーが先ほどやってたように手のひらに人という字を何度か書きぱくりと食べる振りをする一連の動きをソフィーに見せた。 「緊張をほぐすおまじない?」
くすくすと笑いながら言うハウルにソフィーは一瞬ぽかんとしたような表情を見せたが、すぐに顔を真っ赤にさせると恥ずかしさを紛らわせるようにハウルの肩あたりを力いっぱい殴りつけた。
「見てたのね!」
「見てたんじゃないよ、見えたんだよ」
真っ赤になりながら攻撃を仕掛けてくるソフィーにハウルはくすくすと笑いながらソフィーの攻撃を両手を使って制した。ハウルが待ち合わせ場所近くまで来たところで、ベンチに座っているソフィーを 見つけ声を掛けようとしたところでなにやら手に文字を書いては食べるようなしぐさをしているのに気が付くと何とか落ち着かせようと心臓に手を置いたりしている姿がなんとも言えず、思わず足を止めて ソフィーの行動を遠くのほうから見ていたのだ。
「緊張してるの?」
「うるさいわよ!それ以上口を開くなら針と糸を使ってもうしゃべれないようあんたの口を縫い付けてやるから!」
6 穴があれば入りたいという心情が漏れまくっているソフィーはハウルに毒づくも、ハウルはそんなソフィーの言葉すら可愛らしく思えてきて冗談ぽく肩をすくませながら「怖い怖い」とおどけてみせた。 ソフィーがキッとハウルをにらみつけてもハウルは穏やかな笑顔を見せるばかりで、この笑顔を見せたときのハウルには何を言っても通用しないということを知っていたソフィーはしばらくにらみつけた後、ふいと 視線を外して顔の熱を冷まさせるためにパタパタと手で顔を扇いだ。
ソフィーが手で顔を扇いでいるときにハウル何かに気が付いたのかふとソフィーのスカートを掴み、その手触りでも確かめるように布をじっくり見ては擦り合わせたり伸ばしてみたりして訝しげな表情でスカートを見たと思えば 今度はソフィーの全身を頭の先からつま先までをじろじろと見つめては少し残念そうな表情を見せておもむろにため息を吐いた。
いきなり怪訝な表情を見せられて見定めるようにじろじろ見られた上ためいきまで吐かれてしまってはソフィーとしてもなんとなく居心地が悪く、パタパタと扇いでいた手をぴたりと止めると、まだほんのり 頬を赤く染めながらじろりとハウルをにらみつけた。
「なによ」
ぶっきらぼうにそういうとハウルはソフィーの問いかけに返事を返すことなく、掴んでいたスカートを離すとまた残念そうな顔で小さくため息を吐いた。よくわからないハウルの行動にだんだんとソフィーも腹が立ってきて眉間に皺を寄せて もう一度「なんなのよ!」と先ほどよりも少し声を荒げて言うと、ハウルはソフィーの顔を見るや否や「どうしてなんだい?」とわけがわからない言葉を呟いた。
「デートの時ぐらいおしゃれしてきてくれてもいいのに」
大げさに嘆く振りを見せながら言うハウルにソフィーはきょとんとした表情を見せて、自分自身が着ている服を足のほうから上のほうまで確認するように見やった。いつもとかわらない仕事用の茶色のワンピースに 黒の靴、邪魔な長い髪の毛を後ろでひとつに結っている『いつも通り』の仕事着でソフィーはやってきたのだ。
「だって、これしか服がないんだもの。仕事着以外の服なんて持ってないわ」
ソフィーはまだまだ若いのにも関わらずもう店を経営しているせいもあって普段なかなか外へ出かけることが少なく、頻繁にお客さんが入ってきてくれることから店を休業にすることもほとんどなかったので 1年のほとんどを家か店で過ごしているため服らしい服を何も持っていなかったのだ。もともと欲があまりないソフィーだったのだが、仕事をしているせいで服飾系にすっかりと疎くなってしまったソフィーは 自ら買いに行こうとすら思った事がなかった。
今日のデートで普段見ることができないソフィーの私服を見ることができると楽しみにしていたハウルはソフィーがまさか普段と同じ格好で来るなんてことは思ってもみなかったため、落胆の色を 隠すことができなかった。
「綺麗に着飾ったソフィーを見てみたかったのに」
「着飾っても一緒よ」
残念そうに呟いたハウルに、ソフィーはいつもの調子でそういうとハウルはソフィーは本当に自分の事をわかっていないんだからなぁと思い少し寂しそうに笑いを漏らした。しかし、ハウルからして みれば今回はもしかしたら来ないかもしれないという懸念もあった為、どんな服装にしろ今日は来てくれたというそれだけでよかった。と、思うことにした。
「まあ、ソフィーらしいといえばソフィーらしいよね」
独り言のようにそう呟いたハウルは言葉を吐くと同時にスッと立ち上がり、座っていたソフィーの手を取りグイッと引っ張り上げて強制的に立ち上がらせるとにっこりと微笑み、まるで恋人同士がするような 手のつなぎ方でソフィーの手をとった。
「・・・なにこれ」
訝しげな表情で繋がれた手を見て、ソフィーは振り払おうとぶんぶんと手を振り回すがソフィーの手はハウルにしっかりと掴まれていてちょっとやそっとの力では全く微動だにしなかった。
「今日はお礼の為のデートなんだから、これくらいしてくれても罰はあたらないと思うけど?それにソフィーはすぐ迷子になりそうだからこうしてなくちゃ」
だれが迷子になんてなるものですか、失礼な!と思いつつも、過去に何度か迷子になったのを経験したことがあるソフィーはすぐにハウルの言葉に対して否定することができず、 ぐっと言葉を飲み込んで仕方なくハウルの手を握り返した。つい最近もいつも行かないような場所へ花を届けに行ったときに、素直に道を歩けばすぐに着く距離なのにも関わらず 複雑な道を見ては『もしかしたらこっちの道へ行けば早く着くかもしれない』という好奇心が生まれてしまい、結局家にたどりついたのは配達先から出て2時間後の事だった。
まだ地元だったからよかったものの、今から行く場所はまだソフィーが一度も足を踏み入れたことがない繁華街。素直にハウルの言うことを聞いておいたほうが得策だとソフィーは思った。
よくよく考えて見ればハウルとこうしてふたりで出かけるのは初めての事だった。
普段あまり自分の店以外に外に出ることがないソフィーと違ってハウルはこの街にとても詳しく誰も通らないような入り組んだ道に入っては先にある隠れた名店などに案内してくれては ソフィーを大いに楽しませてくれる。花屋をしているソフィーがまだ見たこともない新種の花を取り扱っている花屋や、沢山の大道芸人が集まっているまるで小さなサーカスのような大きな広場。 普段あまり動物に触れ合う機会がないソフィーにハウルは小さな小動物と触れ合える公園へと連れて行くと、最初触れることを怖がっていたソフィーもハウルの助けにより、最終的には抱き上げれる ようにまでなった。驚いた顔や、少し怖がっているような顔、沢山の笑顔に、大きな笑い声。そのひとつひとつがハウルの心の中に大きな波紋として広がり、ハウルの顔も自然に笑顔と なっていく。こんな風に二人ではしゃぐようにして遊ぶのは、ソフィーはもちろんハウルもはじめての事だった。
しばらくふたりで時間を忘れてかのように遊んだ後、ハウルはソフィーの手を引いて近くのベンチに腰を降ろさせると「ここで待っていて」とだけ伝えてどこかに走り去り、戻ってきたときには 両手によく冷えた水を持っており、ソフィーの隣に腰を下ろすと持っていた水を「はい」とソフィーに手渡した。冷えた水をひとくち含ませて体に流し込むと、火照った体に冷えた水が流れ込み、 頭がすっきりとしてきてソフィーはもらった水を一気に飲み干した。
普段ソフィーはバタバタと忙しく店内を走り回っているため、ちょっと体を動かしたくらいではなんとも思わないのだが、ハウルは普段からあまり体をうごかしていないのか水を飲み干したと同時に ぐたっとベンチに圧し掛かり、情けないわねと言葉を吐いたソフィーと目が合うとうるさいなといいながらも穏やかな表情で微笑んだ。
穏やかな空気が流れる中、ソフィーは不思議な視線を感じてふと顔を上げた。きょろきょろと辺りを見渡してみるもその不思議な視線を送っている人物が見当たらず、自分の勘違いだろうかとソフィーは 視線を元に戻した。けれども、今度は別のほうから感じる不思議な視線に、ソフィーは勢いよく顔を上げて見逃すものかと今度は先ほどよりも機敏に顔を動かしてあたりにじっと視線を配る。 ふとそこで遠くのほうでこちらに指を差しながらなにやらこそこそと話している女性二人組が目に入った。何かを話しては女の子特有の甲高い声を張り上げて、ソフィーたちのほうを指差している。 ああ、まただわとソフィーは思った。
ここに来るまでに幾度もソフィーはこの視線を感じ取っていた。どこに行っても皆同じようにこそこそと話し込んでは頬を赤らめて時折指を刺す。最初は気のせいだろうとソフィーも別段きになど していなかったのだが、こうも何度も何度も同じような視線が送られてくれば鈍感なソフィーも気がついてしまうというものだ。最初は自分に何か変なものでもついているのではないかと思って、人と目が 合うたびに自分の服やら髪型やらを確認していたのだが、何度目かの目が合った時にふと人々の視線が自分に向けられているのではなく、隣にいるハウルに向けられているものだということに 気がいて、そこでソフィーはぴんときたのだ。花屋でふたりでいる時には特に何かを思ったことはないのだが、こうして改めてハウルの顔を見てみると同じ人間とは思えないくらい整った顔をしており、 流れるような長い綺麗な髪の毛と人ごみの中でも頭ひとつ飛び出る長身さは周りの目を引き付けるのに十分な素材がそろっているなと思った。
「どうしたの?」
まじまじとハウルを見つめていたソフィーは無意識にハウルの頬に触れていて、ハウルの言葉でハッと我に返ったソフィーは少し頬を赤らめながらパッと手を勢いよく戻し、何でもないのといいながら 無意識とはいえなんて事をしてしまったのだろうと両手で顔を覆うとそのままハウルに背を向ける形をとった。ぐったりとベンチに圧し掛かっていたハウルはスッと体を起こしてソフィーに触られた箇所を 不思議そうに撫でると、俯いて動かなくなってしまったソフィーを見て、ふと顔を近づけた。
「え?きゃっ!なに?!」
ソフィーの顔を覆っていた手が急に開かれたと思うと、隣でぐったりとしていたはずのハウルの顔が目の前まで来ていて、驚いたソフィーは反射的に自分の身を守るために両手をハウルの顔に 押付けてぐいと自分から遠ざけた。
「何で顔を近づけてくるのよ!」
「キスしてほしかったのかと思って」
「そんなんじゃないわよ!」
頬に触れただけでどこをどう計算したらその結果にたどり着くのだろうと思いながらソフィーは真っ赤な顔をしてグイッとハウルの体を思いきり押すと、自分とハウルの間に子供一人座れるぐらいの 距離を開けて、真っ赤な顔を極力見られないようにふいとそっぽを向いた。ハウルは不思議そうな表情を見せたまま触られた自分の頬を撫でながら、真っ赤な顔をしているソフィーをじっと見つめていた。
「僕の顔見てときめいちゃった?」
いたずらっぽくハウルが笑ってそういうと、ソフィーはまだほんのりと頬を赤く染めながら顔だけをハウルに向けると小さく馬鹿じゃないのと呟やいた。するとなぜかわからないがにこにことハウルは 微笑みながら照れ隠しで背中を向けているソフィーを嬉しそうに見つめていた。
「ハウルじゃない!」
6 そのときベンチに座る二人の前に暗い影が落とされ、まず最初に顔を上げたのはソフィーで次いでハウルが少し面倒くさそうにゆっくりと顔を上げてその存在を目に入れた。二人の前には二人の女性が 立っており、ひとりは緩やかなウェーブのかかった金色の髪の毛を腰まで伸ばし上から下まで高価なものを身に着けているとても活発そうな貴族の女性で、もう一人の女性はブラウンの髪の毛を上手にまとめていて 身につけているものから貴族であろうことが伺えたが、彼女はもう一人の女性の少し後ろを歩くような控えめな女性のようで声を掛けた女性の後ろからハウルを見ては静かに微笑んでいた。
そのふたりの見てくれは対照的に感じたが、どちらもがお互い誰もが振り返るような美しさを持っていて、ソフィーもその美しさに思わず見とれてしまったぐらいだった。
「何してるの?」
目の前にソフィーが見たこともないくらい美しい女性がいるというのにも関わらずハウルはまるで興味がないようにつんとそっぽを向いてしまっていて、彼女達が発した言葉にも答えることなくどこでもない遠くの ほうを見つめていた。ソフィーは慌ててハウルの袖をくいくいっと引っ張って彼女達へ返事を返すように促したが、ソフィーが言ってもハウルの態度は相変わらずで依然彼女達の言葉に耳を傾けることなどなかった。
「あいかわらずなのね」
ハウルに無視をされ続けていても彼女達はなんとも思っていないのかハウルが自分達に興味を示さなかろうが無視しようが楽しそうに声を上げて笑っていて、そんな彼女達の様子も無視をするハウルの事も ソフィーの中では全く理解することができずただ唖然としているだけだった。
「あなたは?」
ソフィーが呆然としていると、活発な女性の後ろで大人しく事を見守っていた女性が始めて口を開き、同時にずいっとソフィーの前に立つと品定めするように上から下までソフィーを見みつめた。驚いたソフィーは 瞬時に言葉が浮かんでこず、自分達の関係を考えてみると自分達ってどんな関係なのだろうと改めて不思議に思った。『恋人』では絶対にないわけだし、かといって『友達』かと聞かれるとそれも少し違う気がするし、 そうすると一番適切な言葉としては『知り合い』になるのだろうか。助けをもとめるようにちらりとハウルの方を見てみると、ハウルもソフィーがどう答えるのか興味津々のようでじっとソフィーも方を見つめている。 助け舟を求めたはずのハウルも全く助けてくれるつもりがないようなので、いろいろと考えていたソフィーもなんだか考えるのが面倒くさくなってきて、もうなんでもいいわと思ったソフィーは問いかけてきた女性を 見上げるとすうと息を吸い込んだ。
「知り合いです」
ソフィーが言葉を吐くと同時に隣に座っていたハウルからため息を吐く音が聞こえたが、ソフィーは聞こえていないふりをした。問いかけた女性はソフィーの言葉にしばらくきょとんとした後、急にくすくすと笑い出し、 一緒にいた女性に目配せをすると一緒にいた女性もくすくすと笑い出した。何かおかしなことでも言っただろうかとソフィーは不思議そうな顔で二人の女性の顔を見ていて、ソフィーの視線に気がついた女性が 口元を緩めたまま笑うのを止めて冷めた目つきでソフィーを見た。 「知り合い?そんなお粗末な格好をしているものだから私はてっきり召使か何かだと思っていたわ」
そう言い終わった後、彼女達は我慢ができないといった顔でまたくすくすと笑い出した。ソフィーは一瞬何を言われたのかが瞬時に理解することができず、きょとんとした顔で笑っている彼女達を見ていたが、しばらく すると真っ白になっていた頭が急にさえてきて自分は馬鹿にされたんだということに気がつくと、むっとした表情で前に立つ女性をにらみつけた。初対面にも関わらずここまでストレートに嫌味を言われるのは 生まれて初めての事で、なにか言葉の一つでも吐き出してやりたいところだが召使は怒ることができても粗末な格好という部分は否定することができず、ソフィーはぎゅっと唇をかみ締めながら言葉を押し殺していた。
ふとハウルを見てみるとソフィーが罵声を浴びせられたというのにも関わらず無視をし続けていて、どこか遠くのほうに目を向けながら何を考えているのかわからない表情をしていた。
「召使じゃないとしたら、ハウルの体目当ての悪い虫かしら?もう相手はしていただいたの?」
じっと彼女達の言葉に耳を傾けていたソフィーだが、この一言には堪忍袋の緒が切れたのか座っていたベンチから勢いよく腰を上げると、言葉を吐いた彼女の前に立ちはだかり、怒りと悔しさと恥ずかしさで 顔を真っ赤に染めてわなわなと僅かに震えながらキッと彼女達をにらみつけた。
「馬鹿にしないでちょうだい!」
穏やかな空気にピリピリとしたソフィーの大きな声が響き渡った。それでも女性二人はソフィーの様子にも臆せずそんなソフィーの姿でさえも楽しんでいるかのようにくすくすと笑いを漏らして馬鹿にしたような目つき でソフィーを見ていた。必死に否定すればすればするほど肯定しているのだと思われているのだろうか。悔しくて恥ずかしくて、感情の高ぶったソフィーの目にはじんわりと涙が浮かんでくる。けれどもそんな顔を 誰にも見られたくなくて、ソフィーは涙が流れそうになるのを必死に抑えて必死に相手に敵意を向け続けた。言葉を吐き出せば涙が流れ落ちてしまいそうで、いろんな言葉は喉元まで来ているのに、それを吐き出す ことができず、ぐっと唇をかみしめた。
「粗末な服に、その赤毛。よく恥ずかしくないわね」
ソフィーは思わず手を出してしまいそうになった自分の右手を自分の左手で押さえつけながら、血がにじみ出てしまいそうなほどぐっと右手を握り締め瞳いっぱいに涙をためて女性達をにらみつける。彼女達は よく的を得ている。その分何も言い返すことができない。ずっと遠くの方を見つめてソフィー達のやりとりなど耳に入っていない様子だったハウルも、いつのまにかソフィーの姿をじっと見つめていて、けれどもソフィーの 助けに入るようなそぶりは見せず、それどころかソフィーがこの二人に対してどう対応するのかを見定めているように見えた。
小さく震えるソフィーに女性はふんと鼻で笑うと、視線をソフィーからハウルへと移しふたりしてハウルの前に移動をすると勝ち誇ったような表情を見せた。
「ねえ、ハウル。私達今から行きつけの店に食事に行こうと思っているのよ。あなたもきっと気に入ると思うの、一緒にどうかしら?もちろん・・・そこのドブネズミちゃんも一緒で構わないわよ?」 ソフィーはその場に立ち尽くして二人が吐き出す言葉にじっと耳を傾けて、自分の中に渦巻く怒りや悲しみを心の中で押さえつけて今にもこぼれそうな涙をじっと堪えた。泣いてしまえば負けてしまう。
同時にどうして自分はここにいるんだろうと頭の中にそんな言葉が浮かび上がると、どうしようもない居心地の悪さに吐き気がこみ上げてきた。彼女達の言葉の暴力にソフィーの心の中はズタズタに 引き裂かれ、立っているのがやっという状況だった。
「だってさ、ソフィー」
ソフィーは耳を疑った。驚きを隠せず信じられないといった表情で勢いよく後ろへ振り返り、ベンチに腰を掛けてじっとこちらを見ているハウルを見つめた。ハウルと女性二人がソフィーに注目して、ソフィーの 言葉を待っている。この状況にきて、自分が首を縦にでも振るとでも思っているのだろうか。ここまで言われてもなお、彼女達の言葉に素直に従うと思ったのだろうか。ハウルは彼女達の言葉など耳に入らずとも どこか自分の味方なのだと思い込んでいて、このまま何かを言われ続けていてもきっとハウルは自分を助けてくれるのだろうとそう思っていた。まさかそれが自分の勘違いだったなんて。ソフィーの顔に、ますます 熱がこもるのが自分でもわかった。その熱が怒りなのか、恥ずかしさなのかなんなのかももうよくわからない。
「・・・わたしは遠慮するわ」
そういうとソフィーは戦意喪失でふらふらになった足を必死に動かし、誰かが口を開こうとするその前に言い終わるや否や一目散にその場から駆け出した。後ろのほうで誰かが何かを言っていた気もするが、 恐らくは自分を罵倒する言葉に違いないと思ったソフィーは無意識のうちに自分の耳を両手で塞ぎ、誰の声も何の音も入らないように必死に耳を押さえつけながら走った。とにかく遠くへ。ここではないどこかへ。 ここがどこかとか、どうやったら自分の家に帰れるとかそんなことわからなかったけれど、とにかく足を動かして道が続く限りソフィーは走り続けた。零れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら。
<BR> ××××<BR> <BR> 無我夢中で走ったおかげで疲れることなくずいぶんと遠くのほうまで来ることができたのだが、ふと我に返ってあたりを見てみるとずいぶんと人気のない 場所まで来てしまったとソフィーはゆっくりと足を止めてぐるりと周囲を見渡した。どうやらどこかの路地裏に迷い込んでしまったようで、まだ夕方の人の溢れる時間にも関わらず 人の気配がまったく感じられずしんと静まり返った空気にソフィーの足音だけがいやに大きく響き渡る。背筋に冷たい空気が流れるようないやな空気だと思ったソフィーはとりあえずこの場所を 離れて、もう少し明るいところに出たらじっくりと先のことを考えようとゆっくりと足を動かしていくが、どうやってここにたどり着いたのかが思い出せず前を見ても 後ろを見ても同じような道が広がっていて、歩いても歩いても出口は一向に見えず、どんどん暗さを増していく状況に、ソフィーはだんだん不安になってきて 少し早歩きで路地裏を歩き出した。
今歩いている道で合っているのかそうでないのかわからないが、とにかく道がある限り進み続けたソフィーだったが、先ほど無我夢中で走り続けていた疲労が 今になってソフィーを襲ってきて、足を動かすのもなんだか億劫になってきたソフィーは痛む足をさすりながら路地裏においてある物陰に隠れるようにして身を 滑り込ませると、その場にしゃがみこんでふうと大きく息を吐いた。
(・・どこだろう)
同じような家が連なって建てられている路地裏はまるで迷路のようにできていて、曲がったり後退したりしてなんとかこの場所から抜け出そうとしてみても、やっぱり同じような場所に戻ってきてしまう。
ソフィーは体育座りをして自分の足に額をくっつけると、息を潜めながら先の事を考えなければといろんな案を頭の中に浮かべてみるけれど、どの案も結局はここから出なければ意味のないもの達ばかりで、 とりあえず今自分がしなければいけないことはこの迷路から抜け出すことだった。けれどもこのままがむしゃらに進み続けても結局は先ほどの繰り返しになることは目に見えていて、 その上さきほどまで明るかった空もだんだんと暗みを帯びてくると、視界がどんどん暗くなるにつれて、ソフィーの不安は最高潮に達していった。
こんなことになるのだったら、我慢してでもハウルたちのところについていくべきだったのだろうかと思ったりもしたが、ソフィーはふるふると首を横に振ってあんなところにいるなんて耐えられないと考えを改めた。 今頃は行きつけのお店とやらに行って楽しく食事でもしているのだろうかと思うと、ソフィーはなんだか泣き出したい気持ちになった。こんな知らない寂しい場所にひとりでいるとどうも弱気になってしまう。 そんな孤独に満ち溢れた空気の中をさまよっていると心の中に蓄積されてきた悲しみがあふれ出し、目頭が熱くなってきたと思うと一筋の涙がソフィーの頬を伝った。
(・・・私、なにしてるのかしら)
伝う涙は止め処なく溢れ続け、頬を伝ってはぽたぽたと地面に小さなシミを作っていく。何が悲しくてこんなに涙を流しているんだろうかと自問自答をしたときに、一番心の奥底で悲しみを作り出しているのは この孤独さでもなく彼女達からの言葉の暴力でもない、最後のハウルの言葉だった。ハウルはソフィーにとって恋人でなければちゃんとした友達でもない、それは自分自身でもわかっていたことだったのに。
ハウルがソフィーをかばう理由なんてどこにもないのに。どうしてこんなにも自分は傷ついているんだろうか。
「散々邪険にしといて都合のいいときだけ守ってほしいなんて、勝手な女よね」
ソフィーの心に重く圧し掛かる悲しみの気持ちがソフィーの心を蝕んでいく。止め処なくあふれ出る涙はしばらくの間ソフィーの頬を濡らし続けた。
「お嬢さん、どうしました?」
そのときふと声を掛けられてソフィーはびくんと大きく肩を揺らし、恐る恐る顔を上げて声の主を確認した。そこにはいかにも貴族というような びしっとしたスーツを身にまとい、シルクハッとに杖を持ったソフィーよりも少し年上くらいの若い紳士がにっこりと微笑んでソフィーのほうを見つめている。
見た目はとても人のよさそうな人で、ソフィーの頬に一筋の涙が伝っているのを見ると懐からまた質のよさそうなハンカチを出しては、優しくソフィーの涙を 拭い取ってくれた。こんな路地裏にこんな高級なものを身にまとって歩いているなんて不思議で仕方がなかったソフィーだが、優しく涙を拭って くれたその様を見て、すっかりと心を許してしまったソフィーは「ありがとうございます」とにっこり微笑んでお礼を言った。
「お嬢さんは、どうしてこんなところに?」
「道に、迷ってしまって」
不思議そうに尋ねた紳士にソフィーは困ったような表情を見せながらそういうと、紳士はくすくすと笑いを漏らし「それは大変だ」と肩をすくめると、すっと立ち上がりソフィーの 手を取って同じようにソフィーも立ち上がらせると「ならば私が大通りまで案内いたしましょう」と深々と頭を下げて貴族らしく丁寧にソフィーに言った。
「まあ、本当ですか?!」
ソフィーはきらきらと顔を輝かせながら嬉しそうにそう言うと貴族はもちろんとやさしく微笑みソフィーの手を引きながらゆっくりと歩き出した。 ソフィーは今までちゃんとした貴族を見たことが無く、貴族は庶民を下に見る嫌な奴らばっかりだということ噂を聞いていたため嫌な印象しかなかったのだがこの紳士の男性はソフィーの中にある 『嫌な貴族』という枠をいとも簡単に打ち消し、逆にこんな貴族もいるのだと感動を隠せずにいた。
じっとソフィーが男を見つめていると、ソフィーの視線に気がついた男がふとソフィーのほうを見て目が合ったソフィーに男はにっこりと優しい笑みを漏らした。
真っ赤になったソフィーはパッと男から目を逸らし、恥ずかしそうに視線を下に落とした。
「あ、あなたはどうしてこんなところに?」
恥ずかしさを隠すようにソフィーがそういうと男は少し黙り込んで、ふむと手を顎に当てると考え込むようなしぐさを見せた。あまりにも真剣な顔で悩んでいるものだからソフィーは何か聞いては いけないことをきいてしまったのだろうかと不安になり、言いにくい事だったら別に構わないのよとすかさずフォローをいれたのだが、男はソフィーの言葉ににっこりと微笑み首を横に振った。
「すみません、言いにくいわけではないのです。この辺りには仕事で来ているたのですよ」
そう言って笑った男の顔を見て、どうやら言いにくい事を聞いてしまったのではないということがわかったソフィーはホッと胸をなでおろした。けれども、こんな裏路地に仕事で来るなど変わった 仕事をしているものだと思ったが、これ以上聞いてしまうとまた先ほどのような困ったような表情をされるのではないかと思ったソフィーはそれ以上聞くことができなかった。
「さあ、お嬢さん。つきましたよ」
二人が歩き出してしばらくすると歩いていた先に見慣れた町並みか遠くに見えて、ソフィーは両手を口元に当てて歓喜の声を上げた。まだ街を離れてから数時間しか経っていないというのに もうずいぶんと久しぶりの光景のように思えた。すっかりと陽は落ちてしまっているけれど、人の波は昼間のときとあまり変わっておらず相変わらず真っ直ぐ歩きづらそうな大通りに見える。
そんな場所でもソフィーにとっては一刻も早くたどり着きたい場所であり、ソフィーは案内してくれた男の方へ向くと深々と頭を下げて何度も何度もお礼を言い続けた。
本当ならばちゃんとしたお礼の品でも渡すのが礼儀というものなのかもしれないが、貴族の人に渡す品なんてソフィーが買えるわけもないのでその分感謝の気持ちだけはしっかりと伝えようと何度も 頭を下げ続けた。
にっこりと微笑んでソフィーを見ている男にソフィーは最後にもう一度だけお礼を言うと、クルッと踵を返して久方ぶりに見る夜の町並みへと一歩を踏み出した。
しかし踏み出そうとしたソフィーの足は上手く動かすことが出来ず、ソフィーは不思議そうな表情でくるりと後ろを振り返ると走り出そうとしたソフィーの腕をしっかりと掴んで動けないように していた。
「あの・・?」
であったときから変わらない優しく微笑んでいる笑顔とは対照的に、ソフィーの手を掴んでいる手はどんどん力を増していき、痛みを伴うほど握り締められてソフィーは小さく悲鳴を上げた。
「いっ・・!」
ソフィーが小さく悲鳴を上げたというのにも関わらず紳士はロボットのように優しい微笑を崩そうとはせず、先ほどまであんなに安心感を覚えていた優しい微笑みも 今はなんだかとても恐ろしいものにしか思えない。
ソフィーは無言で手を思い切り引いて逃げようとしたのだが、全く微動だにせず目の前に立っている男から目を離すとどうにかされてしまうのではないかという恐怖感から、 ソフィーは男から目を離すことができなかった。男の目を見ているとまるで金縛りにでもあってしまったかのように体を動かすことができず、体の力が抜けていき足ががくがくと震えてくる。
怖い。
恐怖感がソフィーの身体を埋め尽くしごくりと唾を飲み込むとひんやりと冷たい汗がソフィーの額に滲んできた。自分がこれからどうなってしまうのか、そう思ったときにソフィーの足の震えが さらに酷くなり、ソフィーはぎゅっと目を閉じた。
瞬間、ソフィーと男の間にすごい突風が吹き荒れたと思えばものすごいスピードで何かがソフィーの前に立ちはだかり、同時に目の前に立っていた男が苦しげな 声を上げて真後ろに飛び、鈍い音を立てて地面に落ちた。驚いたソフィーが目を見開いた時にはソフィーの手から男の手は離れてしまっていて、代わりに何か別の大きなものがソフィーの前に 表れて、ソフィーは一瞬何が起こったのかが理解することが出来ず小さな悲鳴をあげると一歩二歩と後ろに下がり、今だ震える足を何とか地に着けながら目の前に現れた存在を改めて視界に入れた。
「・・・ハウルッ」
随分と久しぶりに見る気がするハウルの背中は激しく上下に揺れており、流れるような綺麗な髪の毛は少し乱れているような気がする。
ハウルはソフィーのほうを振り返ることなく、地面に倒れこんでいる男の胸辺りに片足を乗せると、ぐっと力をこめて男に何かを呟いた。すると、男が何か恐ろしいものでも 見るかのような目つきでハウルを見上げると、同時に断末魔のような声を上げて先ほどよりもさらに苦しげな声を上げると、ハウルが足を乗せている辺りをぐっと握り締めて 苦しそうに右に左にと転がり、しばらく叫んだ後口から泡を吐き出し目を白目にさせてぱたりと動かなくなってしまった。
一瞬のことのように思えた一連の動作をまるで他人事のように見ていたソフィーにハウルはようやく視線を向けていつになく真剣な面持ちでソフィーを睨みつけた。普段見ることの無いハウルの 姿にソフィーは声をかけることができず、黙ってこちらに近づいてくるハウルをソフィーは見ていることしか出来なかった。一歩、また一歩とハウルが足を進めるたびに、ソフィーの心臓も 激しく音を上げる。
ソフィーの目の前に来たところでハウルは足をぴたりと止めて、真剣な表情は崩さないままソフィーの顔を見てはすぅっと息を吸い込んだ。
「っこの・・馬鹿!」
いきなり浴びせられた罵声にソフィーは目をぱちくりさせて目の前に立つハウル見た。息の上がったハウルは額に汗を滲ませ時折流れる汗を鬱陶しそうに乱暴にふき取りながら荒くなった息を 整えると最後に大きく深呼吸をした。
「帰り方も知らないくせに何勝手にどっかに行ってるのさ!!ソフィーのことだからどうせ勝手に走って勝手に迷って優しい言葉を掛けられたこの男に道案内をして あげるのどうのってうまいこと言われてほいほいついてきたんじゃないかと思うけどね!この男は人売りだよ!優しい言葉をかけてついてこさせるのはこいつらの 手口なの!この辺りじゃ誰もが知ってる話だよ!僕が来てなかったら、あんたは今頃どこかの金持ちのじじいに買われてあんなことやこんなことされるペットになって たかもしれないんだよ!?わかる!?」
一気に言葉をまくし立てたハウルに、ソフィーは目を丸くしてハウルの後ろで転がっている男を見やった。もしかしてみていたんじゃないかと思うくらい 正確にソフィーの行動を言い当てたハウルの言葉を、疑う要素など今はどこにもない。あの男の仮面のような微笑を思い出しただけで、背筋が凍るような 思いがした。確かにハウルの言うとおり、ハウルがいなければどうなっていたのかわかったものじゃない。
いつになく怒りを露わにしているハウルにソフィーは返す言葉も無く落ち込んだ表情で下を向いていると、ハウルはソフィーの顎を軽く上げて強制的に自分の方へと向かせると反対の手で 手を大きく振りかぶった。瞬時に叩かれると思ったソフィーはぎゅっと目を閉じて歯を食いしばりすぐにくるであろう大きな衝撃に備える。
ぱちん。
しかしソフィーが思っていたような痛みは全く感じられず、撫でるくらいの優しい力でハウルはソフィーの頬を叩いた。驚いたソフィーが目を開けるとそこにはもう怒っているハウルなど どこにもいなくて、ただ心配そうにソフィーを見ているハウルがいるだけだった。
「無事でよかった」
短く、ただそれだけをソフィーに言ったハウルを見て、ソフィーはこれまで蓄積してきたいろんな感情が一気にあふれ出してきて次々と涙が零れ落ちてきた。ハウルの息が荒いのも、額に滲んだ 汗も男を倒したからじゃない、一生懸命今までソフィーを探してくれたせいだからだ。ソフィーがハウルの元を離れてからもう何時間も経っているというのに、ハウルがどれだけの時間を費やして ソフィーを探してくれていたかなんてハウルの姿を見れば一目瞭然だった。そう思うと涙が止まらない。
「ごめ・・さい・・・」
短く吐いたソフィーの言葉にハウルは安心したようにぽんぽんとソフィーの頭を撫でて、自然にソフィーを腕の中に閉じ込めた。泣き続けるソフィーを落ち着かせる為に何度も何度も頭を撫でては ソフィーの耳元でまるで呪文のように「もう大丈夫」という言葉を繰り返し呟き続けた。ハウルの体温を肌で感じていると自然に心が落ち着いてきて、先ほどまで感じていた悲しみや不安がどんどん なくなっていくのが自分自身でもわかった。いつもよりも少し高めのハウルの体温が、今のソフィーにはとても心地よかった。